ヒモ夫の日常

駄文、愚文

働く、好きな物などについて 「漢字ハカセ、研究者になる」を読んで

 

久しぶりに本を一冊読み切りました。色んな本をとっかえひっかえジャグリングして、つまみ食いをし、いつの間にか本以外のもの(ツムツム)にハマって読みきらない事が常です。

 

今回は私が大学でお世話になった教授・笹原宏之先生の(教授と先生で二重になっていますか?)本を読んでヌラヌラ考えたことを書きます。

 

 

 

 

すごくわかりやすく言うと笹原先生は漢字が大好きな人です。

 

好きすぎて研究をしていたら、それを扱う人間、人間が作った社会なんかも好きになったり、調べるようになって、あーだこーだあってやっぱり好きな漢字や言葉にいろんな意義や面白さがあるよなあ~となります。ざっくりです。

 

この本はそういった先生の幼少期や学生時代、研究者としてのあーだこーだを綴りつつ、コラムやエピソードで私達が日常的に使う「漢字」に関する誰かに自慢したくなるような知識や気付きを散りばめた感じ。

 

私は入学前の推薦合格者課題の時から先生の顔や声を知っていたし、こんなちんちくりんな私をゼミに招き入れてくれて単位もたくさんくれて好きなのですごく楽しく読めました。

 

漢字おもしろエピソードを引用すると、日本のへんな姓名のお話。

 

どうやら福井に昔「上沼田下沼田沼田 又一又右衛門」という「沼田フルコンプ藩士」が居たという資料があったそうです。

私も変な名前だな~と思ったのですが、実はもっと短いお名前が誤って伝聞されていたということが後の先生の調べで発覚したそうです。

 

こういうところが研究者なんだろうな、と思います。きっと私なら「こんな面白い名前の人がいるんだ!会話のネタに使えるじゃん!」と思います。

 

先生もそうしたかもしれないですが、後に調べその間違いを突き止めることにもおもしろさを覚えていたはず。

 

私なら調べもしないし、もしかしたら誤っている証拠の資料をジッポライターでいっちゃうかもしれないです。

 

以前、「面白い人」について自分なりに考えてゼミで発表してみた事があります。その時に先生から「おもしろい」ということが時に事実を捻じ曲げてしまうこともあると言われたことがあります。

 

芸人さんのトークや、フェイクニュースなんかもその現象の一つですがやっと実感を持ってその現象の様子や危険性を感じましたね。「おもしろければ」「興味を引ければ」何をやっても良い、という風潮は徐々に私達の感性に影響を与えているのを実感しました。

 

脱線しました。やはり私が興味をひかれるのは人が持っている求心力というか、知識・知ることに対してのワイルド感でした。

 

岡田斗司夫さん、伊集院光さん、立花隆さんなど私が触れて好きになった人はみんなそういうワイルド感を持っています。

 

先生の本を読んでみて、私が知らないだけでそういうワイルド人間がたくさんいるんだなと改めて実感しました。

 

「知る」「解る」という快感にも近い感覚は、人間誰しもが持っていますがそれをどこまで追うことができるのかは、その人の資質や環境、モチベーションとなるコンプレックスなどによって変わっていくと思います。

 

笹原先生は優しい人ですが、ワイルドです。

 

本のおしりの方に「何時間でも向き合えるものはあるか」という問いがありました。すごくタイムリーなんですが、現在私もほとんど趣味みたいな事を仕事にしていて日々その業界や仲間の話を聞いています。

 

その中でそのジャンルを「あまり好きじゃないかも」と思い、自分が好きなものって結局なんだろうか。と考えていたところでした。

 

この本を読んでから今一度考えてみたのですが、どうやら私は「知る」と「伝える」という行為そのもの、伝えるというよりは「言語化してストックする」の方が正しいのかもしれないですが、おしゃべりや書くことも好きなので自分にも伝えるという意味も含めてそれが好きだと思います。

 

またまたタイムリーなんですが、今アニメのお仕事で各地の「神話」について調べています。先生ほどではないですが、できるだけ詳しそうな書籍にあたってパラパラと読んでいます。

 

それがすごく楽しいので仕事を振ってくださった方に伝えると「きっと楽しめると思っていたよ。知ることと、言語化することを楽しんでね。」と言ってくれました。

 

自分でもなんとなく知らないことを知るのは楽しいことだな~と思っていたし、先生の本を読んで考えて輪郭が浮かんできたし、他人から見てもそうなら、きっとそうなんじゃないかなと思います。

 

と考えると「ライター」という広大な職業はなんだかんだ自分にあっているかと思います。

 

もう一つのテーマの「働く」ということもなんだか解消された気がするのですが、この本では先生の仕事についても書かれています。

 

ちょうど私は大学を卒業し「なんでも好きにしろよ」空間を生きています。明日から何もしたくない、と私が思えば何もしなくても別に良いのです。

 

それは今までの価値観上よろしくないことだと判断してお仕事をしているわけですが、自分の恋人や友人が新入社員として大きな会社で働いたり、自分自身がちょこっと「会社」というものを覗いてみると気づきや疑問が多かったのです。

 

私のような社会をしらない人間は「自分を認めてもらうことが快感だ」と思っているわけで、「個人」があまり目立たない集団での仕事をすることの楽しさややりがいみたいなものを本当の意味で理解はしていません。

 

でも周りには毎日一生懸命に働く方々がいて、その姿を見て私も数年後にはああなるぞ!と意気込む先月までは同じ身分だった友人たちがいるわけです。

 

そこでまた私の知りたい気持ちが出てきます。なぜそんなに心血を注いで働くことができるのか、そもそもそれはポーズで本心ではないのか、仕事って働くってなんだろうか、と考えることが多いです。

 

これは

   /へへ  \
  //⌒⌒\  \
  / /    ヽ  ヽ
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  レY-・/ -・- ヽ  |
  | /     V) |
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  ヽ ゙゙  /レソ
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    /) ̄  ∧
   /レヽ  / |\
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生活保護で生きていけるじゃないですか」みたいな事ではなくて、自分もそういう中にいて情報不足だから他の人の話を本気で聞いてみたいと思っているだけです。

 

私はこれまで「本気」を処女のように大事にして、クールを演じてきた人間です。部活や恋愛に本気になるってなんだろう?と。自分の頭の中で熱くなるのってダサいなという気分があって、それをねじ伏せられないまま中途半端になってきたタイプです。

 

今もその名残があります。でもさっき書いた好きなことに関してはいわゆる本気みたいな感じなので良いかなと思っています。

 

すごく脱線したんですけど、先生の仕事はとても理想的でした。漢字や言葉を研究し、たまに教える。

そして好きなことに付随してくる事務的な労働や必要な活動ももちろんこなされている。それを振り返って良い経験だったな~、あれも本分に生きるな~と感じているのではないでしょうか。

 

この話の結論としては「そんなもん」ということです。私は人間の知りたいという力や理性を信頼しているし、希望を持っている反面、自分も含め大したことのない所詮は地球に生きる動物だよな~とも思っているし毎回書いています。

 

もしかしたら先生も本には書けないだけで「書類なんか書かせやがって畜生が!漢字だ!漢字を持って来い!」なんて言って「ヤケ漢字」をしていたと思います。していたほうがおもしろいですよ。

 

また事実を捻じ曲げてしまった!

 

そうそう先生が何度か書いている言葉で「不確かなことは言葉にしたくない」というのがすごく刺さりましたね。私には無理だな~。ずっと空想や妄想、願望などなど現実とは一切関係のない不確かなことばかり考え書いてきたのでそれにはまいりましたね。でも私の不確かなことは他に迷惑をかけていない(と思いたい……)ので許すことにします……。

 

また脱線しましたが、とにかく好きな活動をエンジンとし少しづつドリルみたいにカリカリ進んでいけば振り返った時にとんでもない距離を走った経験や発掘できたお宝があったぜ!みたいなことですよね。

 

つくづく運がいいと思います。悩んで考えていたらひょんなことからヒントや現状の回答に近いものが得られたりする。それを知るのもまた気持ちいいことでした。

 

最後に本でも紹介されていた韓国のことわざが好きなので紹介します。千里の道も一歩から、のポジティブバージョンで「始めてしまえばもう半分」というのがあるそうです。

 

謙虚で素敵なことわざも良いですが、大胆でポジティブな韓国の考え方もいいですね。

 

あと、神話の本を読んでいるとおもしろい視点にも出会えたのでいつかシェアします。先生が漢字を調べて、その過程を構成に残すことと「神話」や物語を継承していくことはすごく似ていて、意義があることだったんだなと思いました。

 

 

 

 

飲み会雑談メモ 「ストーリー論」

定期的に2人で飲む「Gさん」という方がいる。

 

昔バイトのようなもの(説明がだるい)で上司というか出資者のような方に声掛けしてもらい、そこから紆余曲折(エンタメ好きが開花するなど)あって個人的には良い友人関係を築けたと思う。

 

ちょうど倍くらいの年の差ではあるけど、境遇や趣味が同じで、私の考え方に寄り添ってくれる方なので楽しい。

 

その飲み会では色んな例えを交えながら、見聞したエンタメや書籍などを関連させながらその時々に考えていることを話たりする。

 

前回は、「脳みそで快感を得る人間」と「体で快感を得る人間」がいるという論が会話の中で生まれた。

 

私とGさんはフィジカル的な気持ちよさ(アクティビティ、セックスなど)よりも、脳内で感じる刺激(読書、作品鑑賞)などを優先しがちみたいなことだ。

 

今後もこのようなブログを書くことがありそうなので、前提としてそういう会合を行っていることを書く。

 

そして、この「論」は世間一般の人がなんとなくモヤっている心中だと思う。遊びの中で出てきた事を自分の言葉で標本として書き記して置くことが必要だと思う故にこれを書く。

 

面白いストーリーを語ったもの勝ち

ストーリー論とは「この先、面白いストーリーを語り、多くの人を巻き込んだものが得をする」と言うことだ。

 

ここでいう「ストーリー」とは「作品、思想、ビジネス、ビジョン、夢、野望‥」とする。

 

なぜそのような論になったのか。

 

私が元オウム信者上祐史浩氏のインタビューや「Qアノン」のドキュメンタリー番組を見て宗教に興味を持ったのが発端。彼のインタビューでは、トップ(教祖など)が己の教義(教えや信念)を盲信し人を巻き込む。どんなに馬鹿げた宗教でもトップの信念が強ければ強いほど人々も信じてしまう。だからどんなに高学歴でも有毒ガスを製作したり、米議会襲撃事件を起こしてしまう。

 

とかたった。私は自分の生きる世界にそのような空間が渦巻いていることが面白かったのだが、Gさんは「ベンチャー企業なんかどこもそうだよ」と言った。

 

考えてみると、「誰かの理想に人が集いコミュニティを形成する」という構造はベンチャー企業や宗教だけでなく、オンラインサロン、大学、習い事なども含めてどこでも存在している。

 

そのトップにあるものの理想が深いほど、大きな集団になり大いなる力を持つというわけだ。

 

現に私は庵野秀明という人の作品や思想が大好きだし、伊集院光という人間と一心同体だと感じている部分もある。

 

以下に面白いストーリーテリングをして、誰かを自分の物語に参加させるか。

 

この「ストーリー論」は現在の資本主義社会の中心的なものだと僕は感じた。

 

しかし誰もが素晴らしいストーリーを語ることは難しい。ストーリーを語る人とストーリーに巻き込まれる人。その2つの生き方が発生してしまう。(搾取する人、される人的な)

 

そこでもう一つ。「編集者」の存在がある。

 

誰かのストーリーを編集し再発信することで価値を出していく存在だ。私が現在行っている記事執筆や映画やアニメのレビューはその「編集と再発信」に当たるものではないか。

 

自分のストーリーを構築出来ずとも、他人のものを編集しより良い価値を足して行く道だ。Gさんがいう松岡正剛の編集工学もその1つで、ストーリーをより伝播させる役割だ。そのためには多くのストーリーに触れ、解釈し整頓していく必要がある。今後はこの編集という視点でものを見て行きたい。また編集工学についても学んでいきたい。

 

人間は常に何かのストーリーの中にいる。生まれた時から多くの人はそうだと思う。語りべになれ、編集者になれとは言わないけれど、「自分/他人のストーリー」を意識して生活するだけで、違った視点で生きることができるのではないか。

 

「ストーリー」という言葉は自分がしっくり来るもので構わない。

 

THE BATMAN(ザ・バットマン)感想

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『さがす』ぶりに映画館に行きました。

 

TOHOのポイントを貯めるために日本橋の映画館まで行ったのに、財布を忘れて結局ポイントなしで映画を見ました。あとから登録とかできないのか?

 

今日は『ザ・バットマン』を見ました。TwitterのTL評価がそこそこ良かったので3月の中旬から見たいと思っていたんですが、忙しくて見れず。

友人のススメがあったのでこれは今日しかないということで見に行きました。生憎の雨かと思いきや鑑賞後は傘をささずに濡れて帰ってきましたよ。

 

(今思い出したけど、『ハウスオブグッチ』も映画館でみたや!)

 

バットマン事態は初代をうんと前に見た記憶があって(母がちょっとだけ思い入れがあるとのことで一緒にテレビで見た)、スーパーパワー的なものが登場せず地味だなと思った印象でした。結果的にそれが良かったです。

 

良い雨映画

でしたよね。ゴッサムシティって確かイギリスでしたっけ?調べるのも面倒なのでそういう事にしておきますが、映画のテーマとあっていて毎日が暗鬱としているのがすごく良かったです。

 

帰り道に濡れて帰ったのもそのせいですね。

 

黒い衣装が水滴で濡れているのがすごくかっこよかったです。キャット・レディも含めて。でも革製品のようだったのでダメにならないか心配ですね。ウェイン家はお金持ちなので大丈夫か……。

 

私も前に頂いた革ジャンが結構お値段するヤツって知った瞬間に愛着がわきました。

 

ギリギリまでリアルにしてくれている

私がヒーロー映画イップスになっている理由として、自分の中でリアリティコントロールができないということです。

 

普段アニメでたくさん非現実のかっこよさを味わっています。それが関係しているのかわかりませんが、実写映画を見ると「現実に起きているものだ」というフィルターがかかってしまうんですよね。

 

CGとかでどんどんリアルになればなるほど、なんだか乗り切れない。

 

決して子供だましだ!って思うわけじゃないです。もっと子供だましのもので泣いたりしているので。

 

でも本作はテーマも相まって比較的ギリギリまで現実に近いものになっていてすごく楽しめました。結局のところ慣れるしか無いと思うんですよねこういうのは。

 

なのでしばらくはバットマンシリーズを視聴してそこからゆるやかにマーベルシリーズに流れていければいいな~なんて思います。

 

しかし所々で「そうはならんやろ」って思う自分が出てきてました。すかさず頭の中のポプ子が「なっとるやろがい!」と突っ込んでくれたので理性を保つことができました。

 

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カーチェイスシーンが最高

バットマン様に惚れたシーンがあります。カーチェイスシーンですね。

 

ペンギンちゃんを車で追いかけるんですけど、さすがに私でも知ってるバットマン号が暗闇から出てくるシーンは鳥肌が立ちました。

 

そこから高速道路っぽいところで追いかけっこしている一連のシークエンスがかっこよすぎて……。

 

スピルバーグ監督の煽り運転映画を思い出しました。しかも今回は煽る側なので爽快。

 

途中は激しすぎて何が何だか知ったこっちゃなかったですが、そのラストシーンにいたるまで完璧でした。手を組んで目がハートになっていました。

 

バットマン様……☆

 

 

先導するバットマン

ラストシーンの車が急に止まった時に夜間でも見えやすくするためのアレを振りかざしながら人を助けるバットマン様が美しすぎましたね。

 

知らず知らずのうちに自分の行動が大きな事件を起こすきっかけになっていたバットマン様。これまで誰かを助けることなんてしなかったんですが、灯火とともに市民を救い出すというシーン。

 

本作の大事なシーンだけに、バッ様(バットマン様の略称です)表情のアップや逆に上からの引きの画を使っていたり印象に残すのが上手だなと思いました。

 

思えばバッ様の登場シーンなり、カーチェイスシーンなりカメラの構図がすごくかっこよかったですね。ど派手なカメラワークも醍醐味だなとつくづく思いました。

 

 

 

 

 

今日からしばらくバッ様を見ようと思います。まずはノーラン監督のものから手を付けます。

3月の振り返り 大学卒業など

すごく自堕落な3月だったと思います。

この振り返りブログを始めたのは私の友人がインスタグラムで書いていたのを見かけ、ブログを習慣化するために始めたものです。

彼は必ずその月の初日に書くし、ずっと挑戦し続けている人間なので濃厚な振り返りになっているんですよね。

 

しかし私の3月は自分の怠慢による失敗や信頼の低下を招いてしまった月となりました。私が通っていた早稲田大学では3月の1日に卒業ができるのか発表がありました。

 

そこで卒業が確定していたので、そこで気が抜けてしまったんでしょうね。人間の慣れと自分の自堕落な性格が相まって嫌な月になりました。

 

しかし卒業式もトラブルはあったものの無事に終わり、大学を卒業する事ができました。卑屈で度が過ぎるほど自分を客観視してしまう私からすると、とても良い大学生活ではなかったし、後悔ばかりが募ります。

 

やっぱり自分より楽しんだ人、結果を出した人、将来につなげた人などなどたくさんの例と自分を比較するなどして満足点を出せていないような気になってしまいます。これは自己肯定できないというよりも、より現実的に自己評価をしているだけです。病んではいません。

 

しかし、他所は他所、うちはうち。自分との戦いであるということも十分に理解しています。かと言って「良い大学生活だった?」という質問を考えてみるとやっぱり一般的な充実との比較になるのでそんな感じになると思います。

 

でも、この4年間を過ごすことができたのはすごく幸せな事です。散々ワガママに楽なことや嫌じゃないことばかりさせてもらったのは親や家族、友人や上司、先輩など関わってくれた方々のおかげでとても感謝しています。

 

苦しみから逃げながら4年間を過ごせたという点をみれば素晴らしい大学生活だったと思います。

 

みなさん本当にありがとうございました。

 

 

 

 

そしてつくづく人間は変な生き物だなと思うばかりです。

 

先程も書いたように私はひどい一ヶ月を過ごしたのですが、印象に残っていること以外なにも覚えていない。自分が犯したミスや裏切りもなんなら薄れつつあるわけです。そしてこの文面には戦争の「せ」の字も出てきていない。

 

これが人間です。Twitterなどではよろしくない言い争いは続くし、様々な暴露やガセネタや偽ニュースなどが繰り広げられたりと「少し賢い動物」であることはやっぱり変わらないですよね。

 

そこで問題なのですが、人間という種族、そして他人を馬鹿ないきものだと定義する一方、「自分は何者かになれる」と認識している自分がいませんか?

 

私なんかだとライター業務を続けていった先にベストセラー作家になったり、論客になれるのでは?なんて思っているわけですよ。その矛盾にもハッキリいって人間の馬鹿さ加減が現れていますよね。

 

自分の事は棚に上げている。しかし明確に自分がネットに蔓延る変な人達とは違うとは思っているのでみんな一緒だよ!と思うことも難しい。

 

自分のことだけではなく、自分の仕事、言動も客観視して正しく評価していかなければいけませんね。今月はいろんなおごりや勘違いを多くしていて、自分を過大評価しすぎていたなと感じます。

 

自分ができること、自分が活動している場所、そこにいる人間たちなどなどいろんなことをもう一度フラットに戻して、地に足を付けながら活動していきたい所存です。

 

4月は「時間を意識」することを少しづつ初めて、変わっていければと思います。

2月の振り返り コラムとかエッセイは難しい!

2月は何をしていたのか。

 

それなりに仕事をしてそれなりに映画を見たりゲームをしたりして過ごしたような気が

します。

ofsp0604-oto363.hatenablog.com

 

変わったことと言えば、荻上チキさんのラジオが生活の一部になったこと。「平家物語」超面白いということです。

 

とにかく今はおもしろいものに手当り次第行こうと思います。

そしてそれなりの仕事をやめて、しっかりとした仕事をしたいと思います。

 

少しづつ得てきた信用や信頼を失わないようにしっかりと目の前の事をやりたいです。

 

3月1日大学の卒業が確定しました。

 

4年間いろんな事がありました。それをまとめた卒論まで書きました。

 

そしていま荻上チキさんのsessionを聞いていますが、ウクライナ、ロシアの話題が繰り広げられており面白いですね。

 

冒頭でも書いたsessionのおかげでまた新しい脳みその箇所を刺激されたような気がします。もっとたくさんの事を知りたくなったし、書きたくなりましたね。やりたいことばかりが増えて逆に何も手につかないという。そして結局ゲームするみたいな。

家事サボって股間を甘いじりしちゃう感覚です。

 

あと2件ほど仕事やブログ以外の文章を書きました。1つは自分の受験生時代のお話をインタビュー形式で書いたのと、「あなたの沖縄|コラムプロジェクト」に参加させていただいたことです。

 

どちらもおもしろいと言っていただけて、ある程度自由にかけて、お題もやりたい、今一度まとめたいみたい事だったので書いている私自身も楽しかったです。

 

短くてそこそこ丁寧だけどもクスっとできるみたいな文章が心地良いですよね。

 

しかしコラムに挑戦してみて、こんな地下牢からのお便りよりも多くの方に読んでいただいてわかったんですが、コラムやエッセイは難しいです。

 

友人のおすすめである向田邦子さんのエッセイを読んだのですが、あの素朴でシンプルでありながら、ノスタルジックでふつくしい感じがすごかった。

 

自分のコラムを書いたあとだったので、おこがましくも歴戦のプロの文章に大敗した気分になってしまったのです。

 

「俺のは、ただの愚痴じゃないかっ……!」

 

島本和彦先生のタッチになっていました。

というか今ツイートの貼り付けがめんどくさすぎてすごく萎えました。HTMLのタグいじれて良かったよもう。めんどくさいな。

 

あの神っぽい領域にはならないし、そもそも自分を楽しませるために書くを原点にしたいのにあの文章じゃ自分をすごく見せようとしているだけじゃねえか。なんて突っ込んだり。

もちろんこういう事を書く人間がいます!という目的でも書いているのですが。

ゲームでも言われたことがありますが、「褒め耐性」があまりないんですよね。自分なんかがさ、っていう思いが根本にあって褒められるのが逆に申し訳ないというか。嬉しいんですけどね。

しかもこの「自分なんかが……」というのは自己肯定感が低いとかではなく、身の程を知っているみたいなことだと思うんです。

 

やっぱりこんな競争社会で勝つための資本主義専用ザクみたいに育てられてきたので、比較する習性があるんです。上は見上げればきりがないのですが、自分が尊敬する人や憧れる方に少しでも近づきたい思いと、物事を客観視せよという謎の風潮によって習性になってしまったメタ認知(最近友達からならった)能力のおかげで、自分なりの自分の弱さや足りない部分を日々実感するため自己評価が低いと言うか自分のものさしの中で身の程はこれくらいかなと判断しているみたいな感じです。

 

向上心があると言ったら聞こえが良いですが、今の自分の状態と「向上心」という言葉が照合しなさすぎて違うと思います。

 

そんな2月でした。3月は心機一転頑張ります。心を入れ替えます。

 

書いたコラム

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考えた事メモ 「テレビが無くなるのが怖い」

「テレビが無くなるのが怖い」

 

松本人志さんと中居さんがやっている対談番組を見た。その中で俳優の山田孝之さんと菅田将暉さんが、松本中居を含めて4人でトークをした。

 

松本「韓国ドラマに日本が押されているのはどうして?」

 

この問いが出た時に菅田さんの顔が一瞬だけ歪んだ、あるいはニヤケを我慢した用に見えた。

 

山田孝之さんは「日本の演者や撮影・脚本などスタッフが劣っているとは思いません」と発言。松本さんが「ラブストーリーとかすごいじゃない」という。

 

菅田さんは「ラブストーリーや役と向き合っている感じがする。恥ずかしいとか思わずに観客がみたいものに答えているような」と発言した。

 

山田さんの発言は裏を返すと「誰に何を作らせるか」が問題であり、手を動かす側はベストを尽くしているとの意味にも取れる。逆に菅田将暉さんの顔色に違和感を感じたのはその問題のさなかにいるからなのでは?と感じた。

 

これをSNSに書き込んだところ、菅田将暉さんのラジオリスナーの友人から「菅田さんは、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミーにノミネートされたことで、配信や海外進出せずとも良い邦画を突き詰めて行くことに希望を見出せたかも、というような話をしていた」という反応があった。

菅田将暉 「ドライブ・マイ・カー」米アカデミー賞作品賞候補入りに大興奮「シンプルに希望」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

 

そこでその友人とのメッセージのやり取りがスタートし、菅田さんの言うような希望を感じた。映画ファンがこぞって良いという作品が煙たがられていく邦画の現状の話になった。

そこから「音楽ランキング」の話、一時はアイドルグループの楽曲で独占されていた市場が、今やラッパー、バンド、ソロシンガー、ビートボクサー、アニメソング、ボーカロイド、ユーチューバーなど多様性に溢れ、あいみょん、LiSA、King Gnuや藤井風、米津玄師、星野源など業界でも国民的にも人気を博すアーティストが生まれていて、市場に「健全さ」が生まれたのでは?と思った。

 

それにはテレビの影響力の低下が起因しているのではないか。アイドルは毎日テレビに出ていたし、毎日みんなテレビを見ていた。

 

音楽はテレビが中心ではない。だからテレビが衰退しても廃れることはない。かえってテレビによる情報の操作や共有が少なくなったからか、「良いものが評価される」という健全を取り戻したのではないか。

 

ドラマ・映画はテレビが大きなアピールの場である。その力が弱まると保守的になり、売上が見込める作品、キャスティングをするようになったのでは?

 

お笑いというジャンルは特殊である。テレビが主戦場でありながら、昨今話題になる芸人は地下で日の目を浴びてこなかったもの、50歳を超えたもの、ランジャタイとかいう最高にヘンな人たちなどだ。面白いものが受けている。ので健全かとも思われるが、その背景には「Mー1グランプリ」という大きなまつりが存在し、そのファイナリストに残ったものが脚光を浴びるというある意味支配的で非健全なものとも言える。

 

 

 

 

この辺りで私が気づいたのは、「テレビなんだかんだすごい」ということだ。

 

音楽、アニメ、お笑い、映画などなど「売れる」という概念の根本は「テレビに出てた」があるのだ。

 

どんなにインターネットが発達しても、ネットニュースとして話題になったりTwitterのトレンドにはいるのはテレビから情報を輸入していることが多い。テレビでこういう発言をしたという情報が他の媒体を通して入ってきている状況である。

 

「インターネットのテレビ」の存在が無いからだ。インターネットは誰でも利用しているが、アベマを観てる人・観てない人、ユーチューブを見る人観ない人、Twitterやってる人やってない人、など選択肢が多いからこそ誰もが同じメディアに触れる事は難しい。

 

ユーチューブなどは市民権を得ているが、人によって視聴する動画の傾向が違いすぎる。私はゲームや加藤純一ばかり観ている。だがそれを観ない人がいる。

 

テレビは未だに日本の国民の潜在意識の中でメディアのベースとして存在し、その存在があることでかろうじていくつかの情報を日本全土で共有している。中高生のテレビ離れとは言うが、親と一緒に住んでいる学生からすればテレビを目にしない日は少ない。

 

逆に大学生や一人で暮らしている今の20ー30代の世代がテレビをみない層なのではないか。となると私達が親になる頃こそ「テレビの終わり」なのではないか。

 

 

 

この一連の思考の中で感じたことは2つ。

 

「テレビの権威は未だ消えていない」

「テレビが無くなるのが怖い」

 

 

 

なぜ怖いのか考えた。

 

同じ気持ちや知識がない人とコミュニケーションを取るのは怖いからだ。野球部に所属していた人同士での会話と、美術部と野球部の子の会話はどっちが盛り上がるか。

 

同じ話題や価値観を持った人と友人になったり、恋人関係になるのも共有できるものを持っているからかもしれない。

 

共有・共感する機能が廃れていくような気がして怖い。自分が心地いいものしか見えず排他的に、かつ感情的になっていく兆しのような気がしてならない。テレビがそれほどの力を持っているのか測りかねるが、1つの要素が消える恐ろしさを感じた。

 

テレビはオワコン、テレビは要らないとは到底思えなくなった。崩壊してしまう前にベースのメディアとして機能を整えてできるだけ良い形で保存されてほしい。

 

『さがす』『地球外少年少女(前編)』 感想

 

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今日は久しぶりに映画館に行きました。忙しくてなかなか行けなかったんですが、今日は2本見ることができました。

 

『さがす』は気になってはいたもののおっきめの映画館以外に行くのがちょっと億劫なこの頃迷っていましたが、いつも映画を観に行く友人が一緒だったので観に行くことができました。

 

感想を友人と話したので書くことないですが、これからはできるだけ多く残しておきたかったので。

 

 

『さがす』

 

佐藤二朗さんと伊東蒼さん演じる親子を中心に、西成区で繰り広げられる物語です。

 

父子家庭で借金を抱えながらも逞しく生きる2人(というか娘の楓)でしたが、父親が急に失踪。残された楓は一生懸命捜索。

 

そんな中、連続殺人で指名手配されている男と父の接点が浮かび上がってきて……

 

そんなあらすじです。

sagasu-movie.asmik-ace.co.jp

 


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私はすごく好きな映画でした。若干長いかなと思いつつも、リレー方式でフォーカスするキャラクターが変わっていったり、複数の問題意識が感じられたり味変が所々でありラストの展開も良かったです。

 

おまけの夜さんが言ってましたが、この作品の監督は「ジャンルレス」な作劇をする方のようで、今回もその色が出ていましたね。

 

前半はとにかく伊東蒼さんの演技が凄まじくて、見とれてしまいました。動いている伊東さんをずっと観ていたかったです。『空白』では透明な少女を演じていらしたので、正反対の逞しく生きる楓を完璧にこなしていてすごいな~と思いました。とにかく可愛いです。

 

前半は周囲の大人と楓の分断と青春を描いておりました。シスターとのやり取りや、家で1人の楓を自宅に招き入れた後、楓に見えないところで夫に「ごめんね!(ジェスチャー)」する担任の先生とか印象的でした。きっと私が先生に優しくされたときも、そんな風に思われてたのかな……と思いましたね。

 

中盤からは徐々にエンジンが掛かって、大人(ずるさなど)と子供の分断以外にも、「人間の尊厳」を問うような脚本になっていてよりハードに。前半をポップな気分で観れたのでより興味深く考えながらみれました。

 

一番好きなシーンは「白いハイソックスを履いた死体」にしか興奮することのできない山内が涙を流す所。

 

私は、死ぬことでやっと自分が背負わされてしまった性質から解放される、本当に死にたかったのは彼であり、それ故の涙だと思っています。

 

おまけの夜さんの解釈は、その直前に佐藤二朗さんがクーラーボックスを倒すと「プレモル」が雪崩れて来るシーンに注目して「山内はおっちゃんを信用していて、彼のためにビールを買っていた。だからやっとできた理解者に殺される悲しみ、やっぱり俺は異常で孤独なんだ。と思ったから泣いたのでは?」とおっしゃっておりなるほどなと思いましたね。

その他はだいたいいろんなレビューが上がっていて同じような気持ちなので割愛します。

 

最後の卓球をしていて、卓球の玉が消えているシーンはあまり記述がなかったので書いておきます。

 

まず通常のあのラリーもCGでピンポン玉を表現していたと思います。玉がずっとブレて写っていました。映画撮影用の良いカメラで撮るとフレームが滑らかなはずなので、もっとボール感がわかると思います。なのでCGではないかな……。

 

それが消えたということは、ストレートに捉えると「これは映画(フィクション)だよ」ということかなと。観客を現実に返す、正気に戻す行為だと思いました。物語の文脈的に言えば、これから親子のやり取りが無くなり、分断だけが残るということなのかも。

楓の勝ちで良かったですね。

 


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『地球外少年少女』

公開前からかなり話題になっていた磯監督の最新作です。

 

実は『電脳コイル』を観たことがない(正確に言うと当時小学生で何も覚えてない)のでこれまた感想の域を出ません。しかしSFアニメ作品歴史でも燦然と輝く名作らしいし、今作すごく良かったので取り急ぎ観ます。できればこの土日でやってしまいたいです。

 

また今作はNetflixで先行配信され、劇場では前後編に別れて上映なのでまだ全部みれてないんですよね。なのでさっくりと書いておいて、電脳コイルとともにガッツリ書きたいなと思います。

 

全編ワクワクする映像!サテライト同士での銃撃戦のようなシーンや出てくる小物すべてが輝いて見えました。

 

そして設定もたまらなかったな~。ちょっと時事も組み込まれていて素晴らしかったです。素晴らしかったっていうのは私の中では最大限の賛辞の言葉なんですが上から目線に捉える方もいますかね?すごくへりくだってるつもりなんだけどな。

 

そして1番震えたセリフは「宇宙は本物の自然界だ」です。月生まれの主人公が言うセリフなんですが、全くそのとおり。

 

私達からすると遠すぎて、未知すぎて「宇宙旅行」みたいなイメージが先行しますが、どんなものより本物であり、過酷な環境なのが宇宙でそれは地球にある様々な自然環境と同じく偶然によって生まれた(知識ないので宇宙の発生が必然でだったらごめんなさい)ものなんだよなと気づきました。

 

と、こんな感じですね。拙くとも自分が意義があると思うものは残しておきます。