1月の振り返り 『ビリーバーズ』の感想と
2月です。
1月は卒業のための単位を取得すべく、2年所属したゼミの最後の論文を書いていました。辛かったです。
今回はその話と今日読んだ漫画の話を中心に。
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キモいことと、新年の目標の話をしていました。
4年間を振り返って
私のゼミ論文は私自身を「1つのメディア」と定義して、4年間でどんな影響を受け、どんな発信をしたかを振り返り、今後どのようなメディアになっていくのかを考えようというもの。
また、ここ4年間は様々な変化があった時代です。その期間を過ごした若者の思索を残すことで、標本を残しておく意図もあります。
すいません。自分以外に興味がないので、うまく理屈をつけて自分のエッセイ書いただけです(*ノω・*)テヘ
その中で昔の自分のキロクを眺めて、客観視して、こねまくって新しい価値観や持論を作っていました。すごく楽しかったです。製本したので自分でももう一回読みたいし、なんならデータ残っているので、このブログに小分けして残してもいいかななんて思います。
でもかなり恥部を晒したものなので、わかりませんが。
論文のなかでいろんな社会問題や些細なこと、個人的な怒りなどと向き合ってその都度現状で考えられることを書き残しましたが、それを総括するとやはり
「理性的な人間でいる」
ということに尽きます。
客観的に、論理的に考えるのはもちろんですが、ただの「屁理屈」や極論を振りかざすだけになってしまう可能性もあります。
なので多く「共感」しグラデーションで物事を捕らえた言動を心がけることが大事です。
この2つを駆使して自分の中の「道義」を定義し、それに従って理性的に生きることが社会と上手く付き合うことなのだと思っています。
そして揺るがない良い「道義」を構成するのは豊かな知識と経験です。この2つは少しづつ読んだり聞いたりしながら、他の人間と言葉を交わし、自分のすべきことを冷静にやっていく事によって身につくのでは?と考えています。
自分も他人をも損なわず、ストレスフリーで清らかに生きるために私は「理性的な人間」を目指します。
『ビリーバーズ』
奇しくもそんな「理性的」とは真逆の人間の脆弱性を描いた作品です。
とあるカルト宗教に洗脳された3人の男女(男男女!)が、無人島で教祖の指示に従って地獄のような生活をします。
秘密は絶対に作らない、性的な行為はしない、支給された食い物だけを食べる、夢を記録し共有するなどなど
風呂も電気もなく、物資はどんどん質素に。
外界の情報は一切入ってこない。
そんな中で徐々に欲望を剥き出しにしていく3人を描き、最後はカルト教団や各々の結末も描かれます。かといって完全にすべてを明かすお話ではないので、自分で考えるのが苦手な人は読まないように。
タネ明かしがなくとも、十分にしびれる作品です。
抑圧された中で顕になるエロさがすごい。バカバカしいし、きっと作者も軽いノリだろうけどそのノリが狂気じみていて感服させられます。
登場人物たちが正気に戻る(もしくは正気を失う?)を繰り返しながら、夢なのか現実なのかわからなくなっていく描写が非常に刺激的です。
そしてそのトリガーはやはり官能的で激しい色欲によるもの。
どんなに清潔な思想でもいとも簡単に崩壊してしまうし、脳の機能もまたすぐに異常をきたしてしまう。そんな人間の脆弱性をバカバカしく、美しく描いていると思います。
また「カルト」という物が現代では「陰謀論」などと呼ばれるものに変化している事がわかりました。最近そのようなドキュメンタリーを見ていたので解像度というか仕組みがわかって面白かったです。
悔しいですが私に言えることはこれだけです。
2月は健康に、学生の身分をたっぷり楽しむことが目標です。
劇場版『呪術廻戦0』 少年漫画の頂点では?
劇場版『呪術廻戦』0を観ました。
原作コミックスは未読で、テレワークしながらTVアニメを2シーズンさらった程度の知識です。
緒方恵美さんが出演すること、主題歌が好みであることを理由に見に行きました。
ちょっと長いかなという印象でしたが、原作モノなので仕方がないです!でもすごく面白かった。観終わってすぐに書店に走り原作を購入しましたゆっくり読みます。
ながら観していると取りこぼしてしまう情報が多いので、好きなアニメや気になる作品は自分で補完していったほうが良さそうです。
感想
少年バトルマンガとしての、おもしろさやそれをアニメーションで申し分なく表現しきっていた点、緒方恵美さんの演技などすごく良かったです。
アクションシーンは演出も相まって涙が出ましたね。アングルが斬新なところ(乙骨の刀の刃元からの視点)もあって興奮しました。
緒方恵美さんの演技も非常に良かったです。「碇シンジに似ている」という意見もありますが、私はそんなに感じなかったです。もちろん似ているかもしれませんがその見方は緒方さんに失礼だし、制作側のキャスティングの意向とはズレた感想なのではないかと思います。
下心はさておき、緒方さんにしか演じることのできない少年だから依頼したまで、ではないでしょうかね。関連して捕らえた方が良い事と、切り離して観察した方が良い事があるのは理解できると思いますので、自身のものさしで判断しましょう。
『呪術廻戦』の作家性
アニメでざっとしか観ていないので、「バトルモノ」とカテゴライズしていましたが全くの別物でした。
これまでの王道な少年漫画やエンタメ作品を集約させつつも(作者が把握している量)それらをただ踏襲しただけの作品ではないのだなと思いましたね。
その理由は設定です。「呪い」という力を「人間の鬱屈したマイナス感情の集合体」としていることが面白かったです。多分アニメでも言っていたんでしょうけどここは不徳の致すところで何も理解してませんでした。反省。
呪術高専という場所は、人間の1番の原動力である「ネガティブ」を正しく扱いましょうね。と指導する場所であり作中ではそれぞれのキャラクターが「正義」だと思うやり方で呪いを扱っていましたね。
これは現実にも当てはまる話です。「辛い」というのは人を殺したり自分を殺すという最も労力のかかる行動をも起こさせてしまう非常に強いモチベーションになります。あなた達は自分のマイナスをどうしますか?と問いかけて行く作品かな?と思っております。(まだ漫画は読んでいませんが)
原作者の芥見下々にとっての『呪術廻戦』という作品もそうだと思います。多くの芸術家やクリエイターは自分の恥部や闇を作品に昇華させているし、芸がある方もそうです。私の大好きな伊集院光さんも話芸でそれをしていると勝手に思っています。
そのメッセージ性を残しながら、「呪い」という異能力に変形させてキャラクターの言動などを表現しているからこそ共鳴する部分も出てきそうな印象です。
作者の作家性が滲むのはやはり悪役の性質です。今回では夏油というキャラクターの選民的な思想にドキドキしましたね。別に作者の方がそう思っているという話ではなく、「平等」という概念に悩まされる様子が理解できたということです。血の通った作品であることがわかってすごく好きになりました。
最新にして最高峰の作品では?
上記の「呪い」という異能力を使って、誰もが興奮するようなアクションや展開、セリフなどで盛り上げつつ、文芸的な思索を悪役に語らせたりと多面的な楽しみ方のできる作品だと思いました。
故きを温めて新しきを知る!温故知新という言葉が私は好きなので、そういうこれまでの積み重ねと、新しい個人の独創性が融合したと実感するとこうやってブログに書きたい!!となってしまいますね!
漫画が楽しみです。
『ちーちゃんはちょっと足りない』依存とサスペンスの重要性!【ネタバレ】
凄まじい漫画を読んでしまいました……
このマンガがすごいで1位を取った事もあるようです。リアルで苦しかった……
読んだことがない方には早速読んでほしいので、商品ページを貼っておきます。
1巻で完結です。
あらすじ
主人公のちーちゃん。友人のナツ・旭の3人が学校生活を送る姿を淡々と描いています。
タイトル通り、ちーちゃんは注意力散漫で理解力も引く、中学2年生にして掛け算も危うい少女です。
私の中学時代にも同じような友人が数人いましたし、中学生までは義務教育ですのでみなさんの周りにもちーちゃんのような友人がいたかと思います。
しかし明るく素直なちーちゃんは親友のナツや旭、クラス委員長の子などに助けられ楽しく過ごしています。
物語の3話あたりまでは、ゆるい雰囲気とちーちゃんのアホっぷりを中心とした日常ギャグ漫画のテイストですが、徐々に思春期特有の焦りや不安、人間関係、人間不信、格差の実感などなど作品のテーマに近づいていきます。
ちーちゃんとナツは同じ団地に住んでおり、ご飯も服もゲームもお小遣いもその他のクラスメイトと比較して質素なものになっています。
GWの過ごし方、学校で流行しているリボンなど自分が満たされていないことに徐々に気づいていくナツ。
一緒につるんでるちーちゃんは、アホで何も考えてない、でもナツが劣等感を抱かずに過ごせる友はちーちゃんしかいない。
ちーちゃんとつるむしかない自分を情けないと思うと同時に友人にそんな気持ちを持っている事実に落ち込んでいきます。
ギャグテイストのお話から一転して、後半はちーちゃんの友人ナツの心情を中心に展開していきます。
そしてちょっとした事件が起こるのです。
サスペンスの重要性
小さな街の小さなコミュニティーを描いた漫画ですが、後半は読んでいて動機が早くなり読み終わった今もブログを書かないと落ち着かないほどです。
やはりどんな物語でも読者を突き動かすのはサスペンスです。身を持って実感しました。
絵もキャラクターもあんなにほっこりしているのに、この緊張感。凄まじい。
サスペンスとはいわゆる「火曜サスペンス」みたい事ではなくて、
ラテン語suspensus(吊(つ)るすの意)が語源。気がかり、不安な状態をさし、小説、なかでも推理小説、冒険小説、恐怖小説などで、解決の糸口がつかめず読者をはらはらさせる緊張感の効果をいう。演劇、映画でも観客の不安を高め、どんでん返しの結末へと飽きさせずにひきつけていく手法に用いられる。推理小説ではアガサ・クリスティ、映画ではヒッチコックがこの手法に長(た)けていた。
[船戸英夫]
という意味になります。
この作品では少女がはらんでいる感情を、セリフや行動で表現し私達に緊張感を与えているわけですね。
創作物におけるサスペンスの重要性に関してはこの書籍で詳しく説明しております。
依存について
この間、ライターの企画記事で他のライターさんが泣いたアニメをみんなで見るという物をしたんですが、
この中で、女子高生同士の友情についてのエピソードがありました。
今までお世話していたちょっとだらしない主人公が、夢のためにしっかり者になり目標とする人物と切磋琢磨し始めます。
すると今まで世話焼いていた女の子は、一気に自信を失い、あいつがしっかりしちゃたら私の存在価値が無い……となってしまうわけですね。
そしたら女子高出身のライターさんが「女子の人間関係あるあるだ~」とおっしゃっていました。
自分の実力不足や未熟さを環境や周りの友人のせいにして負のスパイラルに陥ってしまう中高生を多くみた。と彼女は語っておりました(笑)
この作品で描かれているのはまさにその部分。
自分が満たされていない事に我慢ができないナツがどんどん暴走していくわけですね。その危うさと、私達も過ごしてきた思春期の雰囲気が読者の心を襲うのです。
また漫画の恐ろしいところですが、人生とは違って他の登場人物の心情や関係もわかってしまいます。
私達の人生なら一人で勝手に想像して苦しんで、それだけですがこの作品にはその他のキャラクターの事まで書かれています。
私達はナツに共感して苦しんでいるわけですが、彼女自信よりも他のキャラクターとの格差がわかってしまうので倍以上のダメージを食らってしまうんです。
物語の続きがあるとしたら、ちーちゃんはナツとの約束が理解できず学校でも休日でもイケてる友人たちと遊ぶと思います。
しかも彼女は自分が足りなくて感じている苦しみを一旦友人にぶちまけて、その回答をももらっているので、足りていたとしてもナツ以外の友人と遊ぶことになるでしょう。
それをみたナツはどうなってしまうのか……
しかも中学を卒業した彼ら彼女らは一体どうなってしまうのか……
いろいろ考えて苦しくなってしまいますが、忘れてはいけないことが1つ!人間はちょっと賢い動物であるというポイントです。
基本的には、なんだかんだで嫌なことはすっと忘れてバランス保って生きる設計がなされています。
ナツが自分の残酷さやクズさを受け入れて(許さなくとも良い)自分なりの選択をしていってほしいな。
思春期にたくさん苦しんだり、思い通りにならない青春時代を過ごしたほうが評価される世界もあります。私自身その世界を模索して歩いています故……。
【ネタバレ感想】ヨーロッパ企画『九十九龍城』 『フリーガイ』との違いは?
嬉しいお誘いがあって、ヨーロッパ企画という劇団の2年ぶりの公演である『九十九龍城』を見ることができました。
自分のアンテナでは捉えることのできないエンタメで大変興奮しました。色々あって学生の演劇はそこそこ見た経験があるのですが、プロの演劇は初と言っていいほどの素人なのですごく面白かったです。
インターネットの性質上、このゴミ溜めのようなブログでも誰かの目に着く可能性が微粒子レベルでも存在するためことわっておきますが、私は演劇を見ることに関しても、ヨーロッパ企画さんの作品に関してもなんの知識もない素人です。
なのでこの記事は感想の域を出ないものになります。
しかし、この作品を見たエンタメファンはきっと昨年大ヒットした映画『フリーガイ』を思い浮かべるはず。
個人的な感想と、似ているようで似ていない『フリーガイ』との比較をメモっておきます。
『九十九龍城』感想
自分自身が経験の少ない場所や知識に触れるのはやはり痺れます。本多劇場の中はそんな刺激に溢れていました。劇中のセリフを借りるなら、刺激にみちみちていました。
すれ違う人はみな、古着かチャンダン系のお香の香りを漂わせ、いかにも観劇経験豊富といった様子。
「お前とヨーロッパ見に来るの久しぶりだなあ」
との会話が散見される始末です。
みな同じものを愛しているはずなのに、あのギスギス感。それがあの街の魅力ですよね。
私はアバンタイトル至上主義者なので、最初かなり集中してみましたが完璧でした。
『メタルギア』シリーズや押井守版『攻殻機動隊』の冒頭のように、何やらモニターで街を俯瞰するシーンから始まり、世界最大のスラムである九十九龍城を2人の男が監視するという大枠の説明を3秒位でわからせてしまうという力。
コロナ禍や資本主義を皮肉ってまっせ~という雰囲気が満ちていて、九十九龍城の住人たちの日常やセットの細かい造詣でさらに伝えようとします。
アバンタイトル震えました。
その他シン劇団員と呼ばれていた女性や、熱い部下を演じた男性、赤い縁のメガネを掛けた役を演じられていた男性など、発声や仕草を見ただけで素人でもこの人すごい人なんだ!というのがわかるほどでした。
またお笑いに関しては、やはり舞台の笑いは慣れていないと難しい面があることを実感。
お笑い番組や漫才(コントは近い?)の文章や文脈的な笑いと違って、動きや流れ、テンポ、演技など総合的な笑いになっているので掴むのに時間は掛かったと思います。
『九十九龍城』と『フリーガイ』
昨年公開前からかなり話題を呼び、大ヒットした映画『フリーガイ』。
主人公たちが作成したゲームのモブキャラクターである「ガイ」がとあることをきっかけに自我を持ち、最後には主人公たちそして画面の前にいる「何者でもないと自覚する我々」をも奮い立たせるという娯楽作品でした。
『九十九龍城』も、あの世界はゲームの中の世界でしたね。しかもプレイ人口が大分減っていて、そのゲーム世界の中でも運営が放置しているようなバグの溜まり場が舞台になっていました。
その中でモブキャラクター達が奮闘するという群像劇になっておりました。
設定はほとんど一緒です。途中セリフや小道具などでその仕組を示唆したヒントがあって、「これ仮想現実だな」って気づいたのですが、2段階の仕掛けになっているのには素直に驚きました。
そして簡単に2作品の違いを比較してみました。
まず『フリーガイ』ではこの世界がゲームである事が観客に事前に明かされていました。その中で意思を持たないはずの人物が成長していくという共感のしやすい展開。
観客とキャラクターが共に何かを「獲得」していく作品です。
『九十九龍城』では、劇を楽しむギミックとして「仮想現実」が使われていたので終盤まで真実は知らされていません。
なので、尊厳を持っていたキャラクターが偽りの世界を生きていると気づいて、「虚無感」を抱くという形になっています。
同じ設定ではありますが、見せ方や趣旨がかなり異なっていますね。
結末もまた面白くって。
『フリーガイ』ではたとえ作られていても「そう思った感覚やその時の気持ちこそがリアルだろ」という結びでしたよね。
嘘の世界でも何か踊らされているとしても、その時の気持ちは揺るがぬ事実なわけで、人間がフィクションを見て感情が揺さぶられるのもそうだし、自分の存在をちっぽけに感じてしまっても、その中にある気持ちは尊重すべきであるという前向きで素敵な終わり方。
『九十九龍城』では、「自分がモブである事が許せない」というセリフが印象的でした。バグだらけの世界でもモブでもやらなければいけないことがあるだろうとのこと。
実際に九十九龍城のキャラクター達はぼんやりと夢の中で、意義ある何かを手に入れた気持ちを抱いて日常を過ごしていきました。
この変化を生み出す要因は、映画であるか演劇であるか。そしてコロナとの向き合い方ではないかと妄想します。
両者ともに「社会を皮肉る」事も役割の1つであり、生である演劇ではそのリアリティと皮肉るパワーが強い。だからただの肯定ではない叫びが感じられるのではないでしょうか。
そしてコロナ禍による待遇というか、環境も影響していると思います。
潤沢なお金を掛けて作ったアメリカの大作と、良いとは言えない状況で耐え忍んできた日本の劇団の作品とではメッセージが違って当たり前です。
似て非なる両作品を通して、考えることがまた増えそうな気がしますね。
12月の振り返り
皆さんあけましておめでとうございます。
新年早々、オンラインでのお仕事をさせていただいて、新年なのに頭皮に皮脂がベトベトになっています。
僕の役目は終わったので先月の振り返りをして寝ます。
ちなみに今日はカレーを作りました。すごく美味しかったです。
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先月は変なことを書いていました。
2021を総括すると「気づく」1年だったと思います。
ライター業を本格的に初めて、大学生をしながら社会にちょこっと足を突っ込んで色々させていただきました。
最初の職場への挨拶をミスって恥ずかしかったのを未だに覚えています。
自分の目的に気づいたり、大人や年上の方について色々考えたり、お仕事について理解したり、良いことから悪いことまで色々わかった事があったかと思います。
感謝ですね。
年末に年代は全く違うけれども、とても中のいい方と飲みに行った時の話が面白ったのでメモします。
前にこのブログでも書きましたが。「行動力」が高い人という言葉の胡散臭さを感じます。
何でもパッと行動できるのはすごく良いことではあるんですが、行動力があるというよりは「鈍感でいられる」の方が正しいのではないか?と思っています。
私は中1くらいに厨二病になり、今でも症状と付き合い続けています。厨二病をこじらせると「俺はカッコイイ」ではなく「他人はダサい」という思考になります。
流行りの音楽を聞くのはダサい。youtuberのファンはダサい。地下芸人を知らないのはダサい。アイドルを推すのはダサい。女と飲み会行くのはダサい。スケボー乗るのはダサい。
みたいになっていきます。そうやって否定していくうちに自分の行動を縛っていくようになります。
何かしたいな、と思った時に脳内の厨二病ウイルスが「それダサくねえか?」と囁いてきます。
いつしか自分含め色んなものを客観視(斜め)して、自制するようになるんですよね。
そして更に段階を重ねると、もはやダサいとかじゃなくて色んな理由をつけて行動をしなくなっていきます。例えば損得だったりしますが、どんどん頭でっかちになっていくと思います。
私は旅行に行ったり、飲み会にいったりするのが苦手ですがそれは頭で「参加する意義」とかを考え出したりするからです。
まとめると、グイグイ行動できる人は鈍感力がある人で、できない人は敏感過ぎる人だと思っていたということです。
そのおじさん友達と飲んでいて、ちょうどこのような話の流れになったのですが、彼の理論もほぼほぼ同じことを言っていたのに表現が違くて驚きました。
彼はフィジカル的な快感が薄く、脳内で補うしか無いんだよね、僕らは、と私に言いました。
酒を飲んでいたので大分鈍感な発言ですが、なるほどなと思いました。
美味しいもの食べたい、とかセックスしたいとか、モテたいとかそういうものから得られる感覚よりも、やっぱり良いもの見たり読んだりしているときのほうが気持ちいいということです。
飯に金も使わないし、奥さんと3年してないし、サウナも何が良いのかわからないそうです。
完全に理解できるわけでは無いですが、肉体的な快感を求める人は何でもグイグイ行くし、苦手な人はどんどん脳を充実させたがるみたいなことだと思います。
これは鵜が先か卵が先かみたいな話になってきますが、頭の悪い何も考えねえやつと、頭がいいから色々考えちゃうんだよね。
みたいな性格の悪い私の考え方よりも、肉体に重きを置く人と、脳内を充実させたがる人のほうが良いですよね。
今度からはこの言い方で、飲み会を断って一人で映画見に行く理由を説明しようと思います。
今年の目標羅列
一人称を僕に統一すること。できれば実生活でもそれが良いです。
身も心も健康であること
いっぱい映画とかアニメとかゲームとか本とか読むこと
仕事死ぬほど頑張ること
パートナーと仲良く暮らすこと
五本指靴下に総入れ替えする
節約する
ダイエットする
ちゃんと卒業する
ポロッとタメ口聞かない
くだらないボケを継続
似合う髪型を模索する
ちゃんと眠る
などなどです。
11月の振り返り
すっごく書きたかった事があるんですよね。
「あー、これ振り返りブログに書こっかな~」
はやく振り返り時期にならないかな~なんて思っているうちに全部忘れてしまいました。
なので本当にくだらないメモを羅列して終わろうと思います。
覚えた言葉
虚実皮膜 ドキュメンタリーとかで使われる言葉。
もとは
芸は実と虚の境の微妙なところにあること。 事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする論。 江戸時代、近松門左衛門ちかまつもんざえもんが唱えたとされる芸術論。
ということらしい。ドキュメンタリー観てて面白いなと思う部分はやっぱりその、虚と実の間の人間。
カメラの前だからといって、自分の気持を肥大化させた言動をとり、自分に酔っているぎみな人さえ映されますからね。そういう部分をみて「こいつすごく人間だなあ」と思うと同時に「人間ってほんとちょっと賢いだけの動物だな」と思います。
和式便所だとトイレットペーパーを使わない。
お尻の開き具合のおかげであんまり側壁に汚物がつかない→拭く必要性が消える
体勢がきついから早く出たくなる
安物買いの銭失い
アーケードコントローラーを型落ちも型落ちで買いましたが見事に壊れました。
結局新型を購入!
しかし中古をカスタマイズして良いボタンやレバーを使っていたので、ボディも中身も最高のものになりました。
不幸中の幸い!
ドキュメンタリー修行『なぜ君は総理大臣になれないのか』【感想】
ドキュメンタリー修行の2作目は、『なぜ君は総理大臣になれないのか』です。
これもまたBRUTUSに載っていたものですが、もともとは映画に詳しい友人にも評判がよく気になっていた映画であったので鑑賞しました。
数々の作品を手掛けるドキュメンタリー監督である大島監督が、「家族の反対を押し切って出馬する」という妻の同級生の男性に興味をもち、なんとなくカメラを回してみたら、なんだか面白そうな男だぞ!!
ってなります。そこから2020年までの17年間を映した作品になっています。
このタイトルから、ダメな議員や政界の腐敗を映していく……みたい映画だと思いきや、小川淳也さんという監督をもってして「政治家に向いてない」と言われる、
極めて真っ直ぐで論理的で正義感のある代議士にフォーカスしています。
彼が初めて出馬した選挙から、大混乱を呼んだ(その頃私はクソガキなのでなんの興味も持ってなかった)小池都知事による「希望の党」のゴタゴタまみれの選挙。そして最後にはコロナ禍で、小川さんの意思を問うシーンまでをカメラに収めています。
無知な僕には知らないことばかりで、とにかく目が離せない映画でした。しかしながら選挙を前にした地方の独特な空気感は子供の頃から感じていたので、現実感を持って彼らを見届けることが出来ました。
大島監督の他の映像作品を観たことがないので、口出しする刺客は無いですがディープウェブ・アンダーグラウンドの中に沈むこのブログは日光も誰の目にも届かないので書きます。
ほんとに監督自身が小川議員に特別な思いがあること(というか誰もが彼には想いを重ねてしまう)がわかりました。監督自身の意見を述べたり、わざと痛いところをついたりして彼の人間性をあぶり出し、上面をも引き剥がしてしまっていてそこに大変しびれました。
こういうドキュメンタリーの作り方もあるのだなと思いました。
序盤に、「自分の子供が政治家になってほしくない」と語る小川議員のご両親を観て「大変そうだけど、なんでだろ~(ハナホジー」なんて思っていましたが、映画後半で「政治家の妻にはなりたくないw」と語る娘さん2人をみて、「わかる~wあーしも絶対ヤダw」ってなってました。
それほどに過酷であるし、制約が多い生き物です。しかも小川議員のような「政治家に
向いてない」タイプの方にとっては非常に難しいことだと思います。その一方で、小川議員には自らの希望を重ねたくなる魅力があるし、それをうまく表現できていると思いました。とくに本人以外から伝わる彼の本質が非常に魅力的です。
そしてこの冬12月24日にはこの作品の続編が公開される事が決定しています。タイトルは『香川1区』。
第49回衆議院議員選挙における香川県小選挙区に出馬する小川議員にフォーカスした作品です。選挙区で当選することを願った清い信念を持った代議士の戦いが見れそうです。
ネタバレもクソも無いですが、この結果を受けてどのような映像作品になっているのか、小川議員とその家族、周囲の人たちを観るのがすごく楽しみです!!!
次は何を見ようかな。