人が生きるの苦しい
サウナで日々の苦しさを紛らわせています。
ものや知識を集めるのが好きで、アニメのフィギュアやポスターを日常的に購入していました。
好きという気持ちでグッズを買うのはとても良いことです。僕はガジェットや便利グッズもすごく好きで、アイデア商品などで日常の些細な不便さを改善する感覚が好きなんです。
便利になるという事実を元に商品を買うのも良い事ですね。両者消費行動として一般的であり、良いものだと私は思います。
しかし、「人がダメになるあるある」の1つである手段が目的に変化する現象が起き、私の消費行動の中に混ざるようになりました。
仕事を頑張るため、暇をつぶすため、ストレスを発散するためなどいろんな理由をつけてグッズやものを買う。
手に入れた当初や、一定期間はすごく満たされたような気がしますが元々必要なものじゃない場合が多いので、便利さや嬉しさはすぐに薄れ別の「必要そうなもの」を探すようになるのです。
買った瞬間がピークであとは虚しさが残る事が増えてきました。
生きるためにまた何か目標となるものや、楽しみなものを探して、それまでドキドキ・ワクワクして、それを手に入れたらまた次のものを見つける。
これを繰り返さないと生きていけないって凄く虚しいなと思いました。
また、別の機会にちょっとした勉強会があって、「資本主義によって形成される社会」について学びました。
すごく当たり前のことですが、社会構造の頂点に莫大な資本や権力が存在していること、上(利益など)を目指して活動して行くことが現実なんだなと思いました。
また、私が趣味でやっているライターというお仕事や、自分が生きる活力にしていた「知識・経験を得たい→その先にある称賛や利益、満足感」に対して疑問を持つようになりました。
先がわからない中、なんで自分は上ばかり見ているのか、楽しいことや幸せなことって何なのか、誰かや社会のため、自己満足などいろんなものがよぎってたまらない。
それから逃げるためにサウナに通う日々なのです。
お金やもの、コンテンツを消費する事の虚しさ。自分を客観視して上を目指すこと、他人と比較してしまう苦しさみたいなものときちんと付き合うべきタイミングが訪れた気がします。
となると、教えを請うべきは「仏教的観念」だと私は考えます。
そしてたまたま自分の恩師と会う機会があり、その旨を伝えた所、大分小さいときから恩師もその人間の変な部分を感じていて、仏教にも親和性を感じていたらしく、いくつかヒントを与えてくれました。
恩師の言う仏教とは、限りなく源泉に近い、ブッダ(釈迦、ガウタマ・シッダールタ)が辿り着いた考えで、そちらのほうがより人間の本質に迫っているようです。
近現代の人間が持つ光と闇に取り憑かれて、疲れてしまっている自分を発見し、そこからどうにかして抜け出したいと思っている。
自分を大きく見せるのも、自分を過度に喜ばせることも、他人を攻撃するのももうやめて、いつかは無くなる大きな世界の中で、どうやって生きて行くのか考えて行動したい。そのためにできることをやってみようと思います。