ヒモ夫の日常

駄文、愚文

考えた事メモ 「テレビが無くなるのが怖い」

「テレビが無くなるのが怖い」

 

松本人志さんと中居さんがやっている対談番組を見た。その中で俳優の山田孝之さんと菅田将暉さんが、松本中居を含めて4人でトークをした。

 

松本「韓国ドラマに日本が押されているのはどうして?」

 

この問いが出た時に菅田さんの顔が一瞬だけ歪んだ、あるいはニヤケを我慢した用に見えた。

 

山田孝之さんは「日本の演者や撮影・脚本などスタッフが劣っているとは思いません」と発言。松本さんが「ラブストーリーとかすごいじゃない」という。

 

菅田さんは「ラブストーリーや役と向き合っている感じがする。恥ずかしいとか思わずに観客がみたいものに答えているような」と発言した。

 

山田さんの発言は裏を返すと「誰に何を作らせるか」が問題であり、手を動かす側はベストを尽くしているとの意味にも取れる。逆に菅田将暉さんの顔色に違和感を感じたのはその問題のさなかにいるからなのでは?と感じた。

 

これをSNSに書き込んだところ、菅田将暉さんのラジオリスナーの友人から「菅田さんは、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミーにノミネートされたことで、配信や海外進出せずとも良い邦画を突き詰めて行くことに希望を見出せたかも、というような話をしていた」という反応があった。

菅田将暉 「ドライブ・マイ・カー」米アカデミー賞作品賞候補入りに大興奮「シンプルに希望」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

 

そこでその友人とのメッセージのやり取りがスタートし、菅田さんの言うような希望を感じた。映画ファンがこぞって良いという作品が煙たがられていく邦画の現状の話になった。

そこから「音楽ランキング」の話、一時はアイドルグループの楽曲で独占されていた市場が、今やラッパー、バンド、ソロシンガー、ビートボクサー、アニメソング、ボーカロイド、ユーチューバーなど多様性に溢れ、あいみょん、LiSA、King Gnuや藤井風、米津玄師、星野源など業界でも国民的にも人気を博すアーティストが生まれていて、市場に「健全さ」が生まれたのでは?と思った。

 

それにはテレビの影響力の低下が起因しているのではないか。アイドルは毎日テレビに出ていたし、毎日みんなテレビを見ていた。

 

音楽はテレビが中心ではない。だからテレビが衰退しても廃れることはない。かえってテレビによる情報の操作や共有が少なくなったからか、「良いものが評価される」という健全を取り戻したのではないか。

 

ドラマ・映画はテレビが大きなアピールの場である。その力が弱まると保守的になり、売上が見込める作品、キャスティングをするようになったのでは?

 

お笑いというジャンルは特殊である。テレビが主戦場でありながら、昨今話題になる芸人は地下で日の目を浴びてこなかったもの、50歳を超えたもの、ランジャタイとかいう最高にヘンな人たちなどだ。面白いものが受けている。ので健全かとも思われるが、その背景には「Mー1グランプリ」という大きなまつりが存在し、そのファイナリストに残ったものが脚光を浴びるというある意味支配的で非健全なものとも言える。

 

 

 

 

この辺りで私が気づいたのは、「テレビなんだかんだすごい」ということだ。

 

音楽、アニメ、お笑い、映画などなど「売れる」という概念の根本は「テレビに出てた」があるのだ。

 

どんなにインターネットが発達しても、ネットニュースとして話題になったりTwitterのトレンドにはいるのはテレビから情報を輸入していることが多い。テレビでこういう発言をしたという情報が他の媒体を通して入ってきている状況である。

 

「インターネットのテレビ」の存在が無いからだ。インターネットは誰でも利用しているが、アベマを観てる人・観てない人、ユーチューブを見る人観ない人、Twitterやってる人やってない人、など選択肢が多いからこそ誰もが同じメディアに触れる事は難しい。

 

ユーチューブなどは市民権を得ているが、人によって視聴する動画の傾向が違いすぎる。私はゲームや加藤純一ばかり観ている。だがそれを観ない人がいる。

 

テレビは未だに日本の国民の潜在意識の中でメディアのベースとして存在し、その存在があることでかろうじていくつかの情報を日本全土で共有している。中高生のテレビ離れとは言うが、親と一緒に住んでいる学生からすればテレビを目にしない日は少ない。

 

逆に大学生や一人で暮らしている今の20ー30代の世代がテレビをみない層なのではないか。となると私達が親になる頃こそ「テレビの終わり」なのではないか。

 

 

 

この一連の思考の中で感じたことは2つ。

 

「テレビの権威は未だ消えていない」

「テレビが無くなるのが怖い」

 

 

 

なぜ怖いのか考えた。

 

同じ気持ちや知識がない人とコミュニケーションを取るのは怖いからだ。野球部に所属していた人同士での会話と、美術部と野球部の子の会話はどっちが盛り上がるか。

 

同じ話題や価値観を持った人と友人になったり、恋人関係になるのも共有できるものを持っているからかもしれない。

 

共有・共感する機能が廃れていくような気がして怖い。自分が心地いいものしか見えず排他的に、かつ感情的になっていく兆しのような気がしてならない。テレビがそれほどの力を持っているのか測りかねるが、1つの要素が消える恐ろしさを感じた。

 

テレビはオワコン、テレビは要らないとは到底思えなくなった。崩壊してしまう前にベースのメディアとして機能を整えてできるだけ良い形で保存されてほしい。