ヒモ夫の日常

駄文、愚文

自分自身の神になれ! ー7月の振り返り

こんにちは。6月から引き続き、凝り性な私はざっと仏教系の考え方が乗っていそうな本を何冊か読みました。

 

 

ofsp0604-oto363.hatenablog.com

 

なんとなく仏教の考え方がなじんできたのですが、今回は「仏教の教えを取り入れたことによる悩み」についてです。

 

今回記載する考え方のソースなどは、固有名詞や個人名を出すと返って読む気が失せるので、参考にした本などを末尾に載せますね。

 

あと上座部仏教メインに勉強していますので、日本的な考え方ではないかもです。

 

 

 

 

個人的な仏教への理解

思わず感銘を受けてしまう考え方の宝庫ですが、今回は仏教における「苦しみ」にフォーカスします。

 

人間が生きる上で、ほぼ全てのものが「苦しみ」であるとされていて、人間はあらゆる苦しみを避けるために、別の苦しみに着手しているようです。

 

例えば「腹が減る」というのは苦しいです。だから「食べる」。でも食べ続けると満腹になって苦しいので、横になって「休む」。また、ずっと横になっていると体が痛くて苦しいので「立つ」、立ちっぱなしが苦しくなると「座る」、座るのが……

 

このような感じ。どんなに楽しいものでも継続すると苦しいです。これは「途中で苦しみに変わる」のではなく、苦しみが積み重ねられてある一定まで達すると、脳が苦しみに気づくというのです。

 

このロジックで考えると、人間は生きることがデフォルトで苦しいもので、それを日々、終わりの時間まで紛らわせていることになります。

 

これに反論するとなると「ずっと苦しいのではなく、途中で変わるんだよ!」と言うしか無いのですが、その話は仏教的な「脳と心身の関係」を学ぶと納得してしまいます。

 

苦しみを増やしていく人間

 

人間は生まれながらに逃れられない本質的な苦しみ(どの行動も苦しい)を持っているので、それを受け入れて、悩まずに割り切って生きるのが仏教的な修行であり考え方だと思います。

 

それにプラスして人間は自ら苦しみを増やしていきます。なのでどの人間にもデフォルトで備わっている苦しみ+自分が請け負う苦しみの総量をコントロールすることが生きる上で大切になります。

 

そのプラスの苦しみとはざっくりいうと「欲」による苦しみだと思います。

 

例としては、孤独という苦しみを補うために、友人や恋人を作るとします。そうすると孤独は和らぎます。しかし一方で、人間関係を維持する苦しみ、その関係が壊れる苦しみが発生しますよね。

 

友人・恋人と深い仲になるたびに、失うのが怖くなるし、その人が自分より仲の良い関係を気づいたりすることに不安を抱き、嫉妬します。もっと仲を深めたいと思います。言うなれば「追い求める苦しみ」と「維持したい苦しみ」でしょうか。

 

人間はこうやって1つの苦しみを解決するために、別の苦しみを請け負ってしまうらしいです。これは人間関係だけじゃなくて、物を買ったりするのもそうじゃないかな。

 

なので仏教は、必要最低限の苦しみを全力で受け止めて、新しい苦しみや悩みを増やさずに生きようよ。というスタンスが基本のキだと思います。

 

 

ブッダ、そうは言うけどさ~

苦しみを受け止めて、幸せに生きたいのはやまやまですが、これってかなり難しい事ですよね。特に現行の社会のメインストリームである資本主義と死ぬほど相性が悪いと思いません?

 

仏教では、「穏やかに生き物としての人間の役割を果たしながら今を生きる」ときっと褒められると思うんです。

 

でも資本主義社会だと「利益や便利さを追求しながら未来の成長のために頑張る」事が良いこととされています。

 

田舎でのんびりと暮らしている人よりも、都会でたくさんの事業を抱えて刺激的に暮らしている人のほうがなんだかかっこよくて、影響力を持ちますね。

 

「無駄な苦しみや悩みは捨てよう」という仏教と、たくさんの失敗や悩み、痛みを糧にして便利さや自分の利益を追求しようという資本主義の考え方は正反対だと思います。

 

そして僕は圧倒的に仏教的な価値観の方が合っています。とは言っても、世の中の人の多くは資本主義的な価値観で生きていたり、生きるしかないのです。

 

仏教ガチ勢になってインドやスリランカに行ってお坊さんになるなら別ですが、日本で慎ましく生きていたいなと思うなら、多少はそういう価値観も持たなければならない。

 

たぶんもう少し本質的な事に気づいている方からするとこの悩みのようなものもくだらない事だと思うのですが、若い自分にとっては。「今、体力があってフットワーク軽くなんでも挑戦できるうちにいっぱい苦しんでそれを糧にしたほうが良いかもしれない……」なんて思ってしまうんですよね。

 

その糧にするという行為が虚しいものだと頭ではわかっていても、小さい頃からなんとなく身についている価値観が悩みを生み出すのです。

 

実は、仏教的な考え方に沿って生きていくと「誰かのために役割を全うする」事によって、自ずと自分の利益も最大化していくような話(体を理解して、無我の境地に入ると思いもよらない行動やアイディアが溢れ出るみたいな)もあるのですが、それを鵜呑みにして頑張れるほど僕は強く無いわけです。

 

じゃあ、自分が自分の神になれば良い?

 

つまり、仏教は素晴らしく今後も大事にしていきたいんだけど、勝負したり自分の利益を考えた行動も取らないと(特に僕のようなフリーランスは)行けないのかもな……?と思ってしまうのです。

 

本当はそうじゃないんですよ。それは頭でわかっています。収入が低かったり、有名になれなくて誰にバカにされたって正しく優しく生きればそれで良いんです。それはわかっているけども、やっぱり悩んでしまうのが人間の苦しみですよね。

 

なので、僕は僕自身の中に「神様のような聖人」と「自分の事を考えてしまう人間」の2つの側面を意識的に作ることにします。こんなのは言ったもんがちなので、傍から見るとよくわからないと思います。

 

要するに客観的に自分を観察して、欲深くなり過ぎない、苦しみを生み出す事をコントロールしようという話です。

 

「~したい!」という人間の自分と、「人間だからそう思うのも無理ないね」みたいな神視点の自分を意識して苦しみを管理していく。これが仏教を取り入れながら現代社会を生きる事のスタートなんだと思います。

 

その上で自分の役割を果たして行きます。

 

割りと雑に何でも読んでますが、今回の話はこの僧(下記サイト)の書籍からの引用が多いです。胡散臭いと思うので見ないでいいですよ。

 

j-theravada.net