自分自身の神になれ! ー7月の振り返り
こんにちは。6月から引き続き、凝り性な私はざっと仏教系の考え方が乗っていそうな本を何冊か読みました。
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なんとなく仏教の考え方がなじんできたのですが、今回は「仏教の教えを取り入れたことによる悩み」についてです。
今回記載する考え方のソースなどは、固有名詞や個人名を出すと返って読む気が失せるので、参考にした本などを末尾に載せますね。
あと上座部仏教メインに勉強していますので、日本的な考え方ではないかもです。
個人的な仏教への理解
思わず感銘を受けてしまう考え方の宝庫ですが、今回は仏教における「苦しみ」にフォーカスします。
人間が生きる上で、ほぼ全てのものが「苦しみ」であるとされていて、人間はあらゆる苦しみを避けるために、別の苦しみに着手しているようです。
例えば「腹が減る」というのは苦しいです。だから「食べる」。でも食べ続けると満腹になって苦しいので、横になって「休む」。また、ずっと横になっていると体が痛くて苦しいので「立つ」、立ちっぱなしが苦しくなると「座る」、座るのが……
このような感じ。どんなに楽しいものでも継続すると苦しいです。これは「途中で苦しみに変わる」のではなく、苦しみが積み重ねられてある一定まで達すると、脳が苦しみに気づくというのです。
このロジックで考えると、人間は生きることがデフォルトで苦しいもので、それを日々、終わりの時間まで紛らわせていることになります。
これに反論するとなると「ずっと苦しいのではなく、途中で変わるんだよ!」と言うしか無いのですが、その話は仏教的な「脳と心身の関係」を学ぶと納得してしまいます。
苦しみを増やしていく人間
人間は生まれながらに逃れられない本質的な苦しみ(どの行動も苦しい)を持っているので、それを受け入れて、悩まずに割り切って生きるのが仏教的な修行であり考え方だと思います。
それにプラスして人間は自ら苦しみを増やしていきます。なのでどの人間にもデフォルトで備わっている苦しみ+自分が請け負う苦しみの総量をコントロールすることが生きる上で大切になります。
そのプラスの苦しみとはざっくりいうと「欲」による苦しみだと思います。
例としては、孤独という苦しみを補うために、友人や恋人を作るとします。そうすると孤独は和らぎます。しかし一方で、人間関係を維持する苦しみ、その関係が壊れる苦しみが発生しますよね。
友人・恋人と深い仲になるたびに、失うのが怖くなるし、その人が自分より仲の良い関係を気づいたりすることに不安を抱き、嫉妬します。もっと仲を深めたいと思います。言うなれば「追い求める苦しみ」と「維持したい苦しみ」でしょうか。
人間はこうやって1つの苦しみを解決するために、別の苦しみを請け負ってしまうらしいです。これは人間関係だけじゃなくて、物を買ったりするのもそうじゃないかな。
なので仏教は、必要最低限の苦しみを全力で受け止めて、新しい苦しみや悩みを増やさずに生きようよ。というスタンスが基本のキだと思います。
ブッダ、そうは言うけどさ~
苦しみを受け止めて、幸せに生きたいのはやまやまですが、これってかなり難しい事ですよね。特に現行の社会のメインストリームである資本主義と死ぬほど相性が悪いと思いません?
仏教では、「穏やかに生き物としての人間の役割を果たしながら今を生きる」ときっと褒められると思うんです。
でも資本主義社会だと「利益や便利さを追求しながら未来の成長のために頑張る」事が良いこととされています。
田舎でのんびりと暮らしている人よりも、都会でたくさんの事業を抱えて刺激的に暮らしている人のほうがなんだかかっこよくて、影響力を持ちますね。
「無駄な苦しみや悩みは捨てよう」という仏教と、たくさんの失敗や悩み、痛みを糧にして便利さや自分の利益を追求しようという資本主義の考え方は正反対だと思います。
そして僕は圧倒的に仏教的な価値観の方が合っています。とは言っても、世の中の人の多くは資本主義的な価値観で生きていたり、生きるしかないのです。
仏教ガチ勢になってインドやスリランカに行ってお坊さんになるなら別ですが、日本で慎ましく生きていたいなと思うなら、多少はそういう価値観も持たなければならない。
たぶんもう少し本質的な事に気づいている方からするとこの悩みのようなものもくだらない事だと思うのですが、若い自分にとっては。「今、体力があってフットワーク軽くなんでも挑戦できるうちにいっぱい苦しんでそれを糧にしたほうが良いかもしれない……」なんて思ってしまうんですよね。
その糧にするという行為が虚しいものだと頭ではわかっていても、小さい頃からなんとなく身についている価値観が悩みを生み出すのです。
実は、仏教的な考え方に沿って生きていくと「誰かのために役割を全うする」事によって、自ずと自分の利益も最大化していくような話(体を理解して、無我の境地に入ると思いもよらない行動やアイディアが溢れ出るみたいな)もあるのですが、それを鵜呑みにして頑張れるほど僕は強く無いわけです。
じゃあ、自分が自分の神になれば良い?
つまり、仏教は素晴らしく今後も大事にしていきたいんだけど、勝負したり自分の利益を考えた行動も取らないと(特に僕のようなフリーランスは)行けないのかもな……?と思ってしまうのです。
本当はそうじゃないんですよ。それは頭でわかっています。収入が低かったり、有名になれなくて誰にバカにされたって正しく優しく生きればそれで良いんです。それはわかっているけども、やっぱり悩んでしまうのが人間の苦しみですよね。
なので、僕は僕自身の中に「神様のような聖人」と「自分の事を考えてしまう人間」の2つの側面を意識的に作ることにします。こんなのは言ったもんがちなので、傍から見るとよくわからないと思います。
要するに客観的に自分を観察して、欲深くなり過ぎない、苦しみを生み出す事をコントロールしようという話です。
「~したい!」という人間の自分と、「人間だからそう思うのも無理ないね」みたいな神視点の自分を意識して苦しみを管理していく。これが仏教を取り入れながら現代社会を生きる事のスタートなんだと思います。
その上で自分の役割を果たして行きます。
割りと雑に何でも読んでますが、今回の話はこの僧(下記サイト)の書籍からの引用が多いです。胡散臭いと思うので見ないでいいですよ。
3虚無に負けないように仏教に学ぶ 6月の振り返り
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なんと6月に書いたブログはたったのこれだけでした。
それもそのはず、書いたり買ったり、いろいろもどかしい時期でした。読んでいただけると分かるかと思います。
紆余曲折あって、仏教的価値観を取り入れることで何か変わることがあるのでは?という話。
↑記事を読むと大体の事が分かるのですが3行でまとめると、
・オタクグッズや便利グッズを買って自分を鼓舞するの虚しい
・解消されない格差がある資本主義社会で頑張って金稼ぐの虚しい
・より良い文章力、人間的魅力のための努力が虚しい
このような3虚無を感じる事が多くなりました。3つ目に関しては自己実現や向上していくのは凄く大事な事です。しかし、それがお金のためだったり、人に認められるためだと虚しい。
仏教らしく言うと「燃えている」状態の虚しさです。自己承認等の欲望を燃やして活力にし日々努力したり活動することの途方も無い道のりを想像すると虚しいな~と感じてしまったのです。
要するに自分のために何かする事が、最終的にあまり意味がないような感覚ですね。
そういう時に頼るのは宗教や哲学なので、僕は仏教をチョイスしました。それも上座部仏教などの原始的な奴です。
まずは、その教えに目覚めた張本人のことを簡単に知りたくなったので、手塚治虫が書いた『ブッダ』を履修。
次にスリランカの上座部仏教の長老であるスマナサーラの本を読んでいます。今後は自分でもっと仏典に近いものを探して読んだり、日本に伝わった大乗仏教なども勉強したいと思います。
アマゾンリーディングの読み放題が安いキャンペーンをしていたので、まずはそちで読めるものを読み漁っています。あのサービスは浅めの教養系の本をよむのにかなり適しているのでおすすめです。
僕みたいな半端な知識で仏教を説くことは不可能なので、メモ程度のことを軽くまとめて置きます。
仏教は哲学や修行に近いです。「何者にも頼らず自分の心と行動で道を創る」ものかという印象です。現実逃避するのではなく、一旦全部理解して受け止めなければ行けないようです。この時点で苦しくなって絶望してしまう事も多いかと思います。
そしてスマナサーラ氏の考えはそういう厳しくも核心を付いたような教えを、科学や新しい学問などを持って、解釈し今の時代にチューンナップしている印象です。
日本では器用に仏教や神道などを経済的なシステムと組み合わせている感じでしょうか。
まだわからない事だらけで、スマナサーラに言わせればこういう定義付けに時間を費やす事が最も無駄らしいですw でも彼の話を聞くと至極まっとうなことなんですが。
そして何より実践をすることが仏教で最も大事な事。そういう生き方、そういう体の感じ方(いわゆる瞑想です)を日々行うことによって自然と悟りに近づくということ。
スマナサーラ氏はその「悟り」という状態をより詳しく現代人でも納得行くように説明しているなと思います。
まとめると、シンプルながら本質的な事を言っているのが仏教でしょうか。とにかく核心をついてくるし、「あー正しすぎてやばいな」と感じます。
何かを信じて救われるのではなくて、徹底して人間や自分の嫌な部分と向き合って行く。なんか書いていて冷たい印象を持ってしまったんですが、全くそんなことはなく自分にも世界にも優しいというか、なんだろう寄り添うような考え方だと思います。
僕には凄くあっているので、これからも少しづつ楽しんでいければと思いますね!
人が生きるの苦しい
サウナで日々の苦しさを紛らわせています。
ものや知識を集めるのが好きで、アニメのフィギュアやポスターを日常的に購入していました。
好きという気持ちでグッズを買うのはとても良いことです。僕はガジェットや便利グッズもすごく好きで、アイデア商品などで日常の些細な不便さを改善する感覚が好きなんです。
便利になるという事実を元に商品を買うのも良い事ですね。両者消費行動として一般的であり、良いものだと私は思います。
しかし、「人がダメになるあるある」の1つである手段が目的に変化する現象が起き、私の消費行動の中に混ざるようになりました。
仕事を頑張るため、暇をつぶすため、ストレスを発散するためなどいろんな理由をつけてグッズやものを買う。
手に入れた当初や、一定期間はすごく満たされたような気がしますが元々必要なものじゃない場合が多いので、便利さや嬉しさはすぐに薄れ別の「必要そうなもの」を探すようになるのです。
買った瞬間がピークであとは虚しさが残る事が増えてきました。
生きるためにまた何か目標となるものや、楽しみなものを探して、それまでドキドキ・ワクワクして、それを手に入れたらまた次のものを見つける。
これを繰り返さないと生きていけないって凄く虚しいなと思いました。
また、別の機会にちょっとした勉強会があって、「資本主義によって形成される社会」について学びました。
すごく当たり前のことですが、社会構造の頂点に莫大な資本や権力が存在していること、上(利益など)を目指して活動して行くことが現実なんだなと思いました。
また、私が趣味でやっているライターというお仕事や、自分が生きる活力にしていた「知識・経験を得たい→その先にある称賛や利益、満足感」に対して疑問を持つようになりました。
先がわからない中、なんで自分は上ばかり見ているのか、楽しいことや幸せなことって何なのか、誰かや社会のため、自己満足などいろんなものがよぎってたまらない。
それから逃げるためにサウナに通う日々なのです。
お金やもの、コンテンツを消費する事の虚しさ。自分を客観視して上を目指すこと、他人と比較してしまう苦しさみたいなものときちんと付き合うべきタイミングが訪れた気がします。
となると、教えを請うべきは「仏教的観念」だと私は考えます。
そしてたまたま自分の恩師と会う機会があり、その旨を伝えた所、大分小さいときから恩師もその人間の変な部分を感じていて、仏教にも親和性を感じていたらしく、いくつかヒントを与えてくれました。
恩師の言う仏教とは、限りなく源泉に近い、ブッダ(釈迦、ガウタマ・シッダールタ)が辿り着いた考えで、そちらのほうがより人間の本質に迫っているようです。
近現代の人間が持つ光と闇に取り憑かれて、疲れてしまっている自分を発見し、そこからどうにかして抜け出したいと思っている。
自分を大きく見せるのも、自分を過度に喜ばせることも、他人を攻撃するのももうやめて、いつかは無くなる大きな世界の中で、どうやって生きて行くのか考えて行動したい。そのためにできることをやってみようと思います。
本業「ヒモ」、副業「ライター」(5月の振り返り
5月某日。
僕の彼女がインターン先で大変お世話になったという方と、僕と、彼女と3人で飲み会が行われた。
僕が彼女から話を聞いたりして勝手に想像していたイメージが「マッチョ(体育会系的)な人」だったので、マッチョさん(仮名)と呼ぶことにする。
彼女が「僕とマッチョさんは絶対に気が合うから」というので、トボトボと彼女の後ろを付いて集合場所へ向かった。
マッチョさんは仕事の都合で集合時間に遅れた。僕は我慢したけど、耐えられなくてこれから食事をとるのにも関わらず、「ハムエッグパイ」を食べた。パイ生地は本当に美味しい。
僕がパンをモグついているとマッチョさんが現れた。正直最悪な出会いだと思った。どうせ奢ってもらえると思っているクソガキが、「集合時間に遅れるのが悪いですよ」と言わんばかりにパイ生地を食っている。
僕の彼女が出来た人間である分、自分の腹の都合もコントロールできない男と付き合っていて心底マッチョさんはがっかりしたろうなと思う。
だから僕はひたすらヘラヘラした。本当にお腹が空いていただけなので、悪意も敵意も、失礼なことしちゃった……みたいな気も使っていないように見せるべく必死でヘラヘラした。
するとマッチョさんは、「こういうタイプか!喧嘩しようとも思えない感じね!」と言った。僕はこの人凄いな~と思った。全部バレている。衝突したくない傷つきたくないがゆえに、ヘラヘラしたのを一瞬で見抜かれた。
飲食店に着いて、最初は僕も探り合いの泡会話(意味のない会話の意)を繰り広げていたけど、マッチョさんは占い師のようだった。彼は僕と話しながら「今まで出会った人間パターン辞典」を引き、「君はこういうタイプでしょ?」と僕をそのデータに当てはめて行く。
それにまんまと当てはまっていく僕。
そして、10分位話していると「君は彼女のヒモだね!、時代が時代だったら女社長の助手席に乗ってたと思うよ」と言われた。
ギクッ!
もちろん僕は今の彼女が好きで、6年間も一緒にいるけど、その理由は別に「好きだから」ではない。僕の彼女は僕を「ポケモンか何か」だと思っていて、サトシのピカチュウの如く放し飼いにし、僕の生活を見て楽しんでいる。
僕は生きるだけで、彼女を楽しませていると自覚していた。彼女がお金や名誉も考えず僕を飼ってくれる事を自覚していた。
まごうことなき「ヒモの自覚」があったのだ。
それをものの数分で見抜かれてしまった。僕はすぐに方向転換をして、腹を割って全部話すことにした。考えていることも、彼女との事も、絶望している事も全部話した。マッチョはそれを面白がって、受け入れて、楽しんでくれた。
僕はマッチョも彼女もどっちも大好きになった。僕みたいな人間は警戒心が強いようで案外チョロいんだと思う。
完。
ここでなんちゃってエッセイは終了です。ここからはちゃんと5月の振り返りをします。
まずは、初めての仕事を体験しました。しかも結構な失敗をしました。
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詳細はこちらからご覧いただけます。
しかし凄く良い経験で、未だに変なプライドや傷つきたくない気持ちを持っていて、なんのために『エヴァ』を観たんだと心底自分が嫌になり、愛おしくなりました。
そこから悩みます。
僕の近年の悩みは「インテリ風オタク」になってしまっているという事実です。このブログを始めた頃は、とにかく書くことが楽しくて、変なギャグやキモい例えを書きまくっていたのに、映画を100本観たせいで急にサブカルチックになったり、勉強する事の楽しさを再確認して、いろんなものを見るようになりました。
そこで、ただの無知な学生が楽しくやっていた場所から、ちょっと賢くて考える力を手に入れた中途半端な人間が、なんだか頭の良さそうな事を書く場所になってしまっていたのです。
そして今日。この悩みはまだ続いていました。根は真面目であるものの、もっとふざけていたい。でも賢ぶりたい、これから何を書いて、どんな風に生きようか迷っていたのです。
ふと彼女と電話していて、「今週のゴッドタンがなぜ凄いのか」「宮迫中田のYouTube番組がなぜアンバランスなのか」などを嬉々として話して居た際に、「YouTubeやって話そうかな」という話題が出ました。
でも僕はなんの専門家でもなければ、肩書も無い。作品やコンテンツについて語るエンタメは「肩書」が物を言いいます。大ヒット作家の作品批評と、素人の批評では圧倒的に前者のほうが説得力があるからです。
しかし、彼女は「素人だから面白いんだよ」と反抗的態度を取るのです。僕はありとあらゆる例を用いて説得しようとしましたが、彼女はうなずきません。さらに彼女は「若者だから、詳しくないから、素人だからこそ親近感が湧くし、なんでこんな奴が大真面目に語ってるんだ?ってなって面白いじゃん」というのです。
それだ!!!!!!
専門家でも無いからこそ、ハードルが下がるし、素人の癖に何いってんだ?というボケにもなる。そしてそんな同しようもないやつが、本質を突いた時、人間は「やるやん!」となる。ヤンキー猫ちゃんに傘さす現象と一緒です。
僕の理論で考えると、「全然詳しくない肩書をつける」事によってプラスの事を起こすという事ですね。
そこで彼女に僕をラベリングしてくれ!とお願いすると「あんた私のヒモじゃん」と言うのです。
ヒモだ!!!!!
僕はこれからも彼女に飼ってもらう気満々です。そんなヒモが真面目なこと言ったり、ふざけたこといったり、時には本質的な事を言う。それで良いじゃないかと。
僕は心がスッキリとしました。傍から見れたただのヒモなんだから、賢くいる必要もないし、不完全で当たり前。無知の知、おのが下手さを知りて一歩目です。なので今月気づいたことは、僕の本業は彼女を死ぬまで楽しませるヒモであり、趣味や副業としてライターや人生をやれば良いということです。
あー、気が楽だ!!!
初取材に行ったら自分が包茎だと気づいた
今日はライターとして初めての取材に行ってきました。
今回はとある作品のキャストの方にインタビューです。
誰でも知ってるような有名作の新シリーズで主役を務めるお二人へのインタビューです。
かなり心に残るお仕事になりました。今日わかったことは、
・インタビューは難しい
・僕は包茎だ
の2点です。
初取材でめちゃくちゃ緊張していたのですが、そもそも「インタビュー」というモノが何をするべきで、何をすべきじゃないのか全くわからなかった。先輩や編集者の方にお話聞いて、わかったつもりでいましたが百聞は一見に如かず!
インタビューをしながら頭の中で「インタビュークソムズやん!」と関西風ツッコみをしてました。
終わって初めて難しさや大事な事がわかりました。
読んでる人もいつかインタビューするかもしれないので書いておきますね。
まず相手も同じ人間なので、聞いてすぐ答えが帰ってくるものではありません。待ちましょう。
聞き役に撤しねば!とだけは思わずに、話聞きながら入れる場所はあるか!?と探しましょう。
声は大きくしましょう。
なーんだ!当たり前のことじゃないか!と思うかもしれません。ですが、限られた時間の中で仕事としてお話をする難しさのはやってみないとわからないもんですね。
インターンをしたり、就活で面接を受けたりすることはこういう社会的会話の練習だったんだなと思いました。僕はそれから逃げたので出来なくて当然なのです。僕の周りの新社会人は本当にみんな偉い!誇れ!
「取材は出来ない」という事がわかりましたので、少しづつできるように頑張ろうと思います!
次に僕は包茎だと言うこともわかりました。
もちろん僕とサウナに行ったり、セックスをした人は分かると思うんですが僕は包茎です。毎日お風呂で見るのでそれは理解してます。
精神的にも包茎でした!
僕はさっきも行ったように就活やインターンみたいものから逃げました。それは「恥をかきたくない、傷つきたくないから」です。
考えてみればいろんなことから逃げてきた人生です。もちろん頑張る時は頑張りましたけど。
失敗したくない恥かきたくないというのは、それがダサいと思っている。つまり自分はイケてるダサくないと思いたいということですね。
そしてそれが自意識過剰になってしまったり、人の目ばかり気にしてしまう要因になるわけです。
僕はなれないインタビューをしながら、「こんなに出来ないのか!はずっ!」っと思ってました。
初めて部活に入った時とか、マット運動をみんなの前でやっている時の感覚です。
それと同じ感覚を未だに感じるってことは全然成長してないじゃないか!と思いました。
僕は未だに出来ないことや、自分が情けないって思いたくない、子供じゃないか!って思ったんですよ。大人になったつもりでいましたが、まだまだ思春期を引きずった厨二病の男の子なんだな~と実感しました。
色々着飾って強く見せても中身はまだまだ刺激を怖がっている、つまりは包茎です。
失敗したり恥ずかしい思いをして少しづつ大人になっていくものなんですね。
そんな精神的に包茎野郎の癖に、なぜ完璧になろうと頑張っているのかって話ですよ。
僕は嫌われたくないとか、ダサいと思われたくないとか、もっとすごくなりたいって思いすぎ。まずは皮向いて自由にしたほうが気も楽ですし、幸せなはず。
難しいことは難しいでいい、わからないことはわからないで良い、出来ないことは出来ないで良い、できるふりして一生刺激に怯えるよりも、そうやって許したほうがよっぽど楽です。恥かいたり失敗しながら、少しづつできるように、わかるようになっていけば良いんですね。
僕は自分を損ないたくない、保ちたい一心でそんな基本的なことにも気づけずに22年間過ごしてきました。優等生で、出来るやつで居たいって気持ちが強かったんですね。
期待に答えるとか、褒められたいっていう気持ちがどんどん強くなった結果でしょうか?
よくわからないけど、あ~!肩の力を抜いて少しづつ頑張れば良いんだな~って改めて思いました。持久走大会の前はいつも母からそうやって言われていたな~。
逃げたり虚勢を張ったりしながら、無理して無理して、一生懸命頑張る人を馬鹿にしたり、見下して自分の機嫌をコントロールしていくうちに、自分のほんとうの気持ちとかやりたいことも、恥ずかしいとかダサいって思うようになり、いつの間にか何が好きかもわからなくなって、鬱っぽくなったりもして(コロナ禍で1人になれて本当に良かった!)、少し遠回りしましたけど多分前よりは楽なんじゃないかな~と思います!
いま包茎な私でも友人や家族がいるわけなので、今で十分満足ですし、これからちょっとずつ皮を剥いて夜風に当てたりして刺激になれていけばもっと楽しくなるんじゃないかな~。
インタビューって今の僕には出来ないんだな~という、当たり前で他人からするとそらそう!と思うことかもしれないけど、「出来ないことがある、少しづつ出来るようになれば良い」ってズドンと体験できた事が凄くありがたいです。
好かれるとか、嫌われるとかそういう事はあまり気にせずに、自分が出来ることをちょっとずつやっていきたいなと思いました。
すごく良い経験が出来たと思います!このインタビューはずっと忘れないようにしたいです!
あと普通にコンプレックスなので、ちんちんの方もどうにかしたいです!では!
今日気づいたこと 好きでも嫌いでも勉強しよう
ノブロックTVにて、「知らない科学は宗教に見える」との発言
嫌悪感、懐疑的な時はまず勉強し、その上でどのような気持ちになるのか考える。
好き、興奮する時にもまた勉強し、その上でもっと好きになるのか後戻りするのか考える。
「調べる、知る」という段階を必ず経るべし。
自分の特徴は「ミーハーなところ」「解る、できるへの憧れの強さ」
その上で「調べる」事の意義を理解し意識する。
4月の振り返り ー有名神話と『ゴールデンカムイ』
連休前に仕事がたまり、落ち着くや否や色々あって、今はゆったり温泉街で毎日温泉とサウナに入って、猫を撫でています。正直最高のGWです。
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4月は色々と忙しくしていたらあっという間に終わりました。これからも真面目に不真面目に頑張ります。
勝間和代さんのユーチューブが面白かったのでシェアです。
せっかく見た感じは普通じゃないよりなので中身も外見もより個性的に!
金儲け、趣味、仕事、恋愛などなど必要なものは「全部やる」という勢いで行きたい所存です。
さて今回はお仕事で勉強した「神話」のお話とすごく関連のある漫画の感想を書きます。
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2週間ほど前に書いたこのブログでは、「漢字」から日本や中国などの漢字文化圏の人間や社会を読み解く研究をしている私のゼミでお世話になった教授の本を紹介しました。
この記事で僕は
あと、神話の本を読んでいるとおもしろい視点にも出会えたのでいつかシェアします。先生が漢字を調べて、その過程を構成に残すことと「神話」や物語を継承していくことはすごく似ていて、意義があることだったんだなと思いました。
と言っているのでこの話を少し。
僕もローカル感満載で、独自の文化満載の島で生まれ育ったので、地域に根づいた文化を大事にしたいという試みは小学生くらいの頃から学習していました。
食や言葉などが中心だったのですが、その意義が掴めずにいたんです。もちろん古い言葉や言い伝えなんかを残すことが大事だと頭では理解しているのですが、芯をまだ実感していないようなそんな感覚です。
私は4月にほんのちょっとですが、『平家物語』と『ギリシア神話』、『北欧神話』に触れました。どれもかつて現地で生活していた人間たちが語り継いできた物語です。
物語自体を訳した書籍や、解説・要約してくれている新書なんかを読んでみました。
するとだいたいの書籍が・はじめに、の部分で「この物語からは〇〇人の精神性を読み解くことができる」と書いてあったのです。
そこでハッとしましたね。
物語や歌はそれに親しんだ人たちの思想や希望、信じるものがたっぷり詰まっているものです。それを読むことによって、その人達の根底にある思いや価値観の原形が見えてきて相互理解や互いに価値観を許容していけるかもしれない。
それに気づいた時に、物語を構成する「言葉」や、それに付随する食文化などが「残っている」という重要性がじわりと伝わってきました。
理解し合う、許しあえるということは難易度が高いのにすごく重要なことなのでそのきっかけの一つになりうるのなら、私が生まれた土地の言葉や物語を残していくことは大切なことなのだと思います。
そういう出発点となる視点を体感できたのはすごく嬉しいことですね。
そして、『ゴールデンカムイ』という作品はまさにそのようなお話です。
アイヌの文化を取り扱った漫画で、詳細な調査とその表現に驚きます。難しい題材であるはずなのに、映画好きな野田先生によるサスペンスとギャグが心地良いですね。
思わずメモしておきたくなるようなセリフも多くすごくおもしろい作品でした。
すでに私の関心は作品を飛び越えて、アイヌ文化に向いています。まずは基礎的な事でよいので5月はそこも学んでいきたいです。民族や文化を守っていく意義をどちらも教えてくれました。