教えたくない本の話 「読みたいことを、書けばいい」
そっこーで教えていくスタイル
1ヶ月前に読んではいたんだけど。
というか「読了」とか言い出すやついるよね。読みました!とかおもしろかった!で良いのに。
いつもどおり本屋さんでブラブラしていた。一応は目的をもって本屋さんに行くんだけど、買うつもり無いのに衝動で買ってしまうときってありますよね。
たまたまそんときは時間つぶしにツタヤに行く(ゲーセンとか雑貨とかあるデカツタヤ)っていう田舎特有のあそびをしている途中で、たまたま見つけた本。
田中泰延さんの「読みたいものをかけばいい。」
について今回はちゃちゃっとメモ書きする。
文章術!的な本はあまり好きじゃなくて、ストレスとか黒歴史とか性癖やらを自分勝手に書くのが楽しいじゃんかよお!って思っていた。
しかし、この本を手にとった時、最近の〇〇考察!系の流行りを受けて、考察を書いてみたりだとか、なんかどうやったら読んでもらえるか、俺すげえって思ってもらいたいとかだいぶブレブレになっていたことを実感。
薄々感じててやだなあって思ってはいたんだけど。
まさになんとかにもすがる思いでこの田中さんの本を開きもせずにタイトル買いした。AVはパケ買いしないタイプなんだけど。
「人生が変わるシンプルな文章術」は胡散臭いって思われそうで人に買ったって言いたくなかったんだけど。しっかりブログに残して忘れないようにしたい本だった。
タイトルだけは自分の作品ではない、って言ってたから仕方ないことだったんだろう。
どんな本なのか
読めばわかるので、ささっと本書の説明とおもしろかったポイントを上げて、最後モストバリアブルおもしろかったとこを少し引用して、思ったことを書きたいと思います。
ちょっとこの本と矛盾するようなところ(下記に記します)もあるとは思いますが、それはあくまで筆者の段階、あるいは田中さんの場合の話なので、と言うことにしましょう。
自分を持たないと張本さんに喝られるしね。
短くて完結でおもしろい文体で、長くキモくて面白くない俺の文体とは逆でとても読みやすい。
大学行ってサラリーマンしてた田中さんが、たまたま映画批評を書いてみて、そこからどんどん繋がってこの本を書くまでに至った。
一体何があったのか、なんで文章を書くのか(田中さんが)という感じ。ざっくりすぎる。けど良いや。
自分のために料理を作ったことがあるか
例えば肉じゃがとか食べたい時、材料買ってレシピ考えて作る。美味しくできたら嬉しいし、人に食べさせたいと思う。もしかしたら料理を通じてなんか繋がりができる場合もある。
これが文章を書くということらしい。あくまでも自分のために書く。もしかしたら読んでくれる人がいるかも。という意識。
俺がこのうんちブログを書き始めたのは、自分から出てくるものを書き留めておきたい。それにプラスして「すげえ」って言われたいから日記じゃなくてブログにしようとおもった。続けるモチベーションにもなるしね!
例えば、映画を見て泣いたとして。「なぜ自分は泣いたんだろ」「作った人は何が言いたかったんだろ」とか自分が知りたいことを知るためにじぶんで考えてみて、それを記録に残すために書く。ということが本質だ、という主張だと思う。
実際、多くの人に読まれたい、有名になりたいとか基準でなにかするとダメになる。これはみんないろいろ思うところがあると思います。
楽しいのが、一番なのだ。自分のためにも!
調べるということ
この本で一番ギクっとしたのは「書きてえなら、しらべろや」というところ。
感想なり考察なりするのなら、一次資料に触れて根拠を持つ。そしたらどんな好きなことでも書いてよし!
めちゃめちゃ耳痛い。いま飛行機で書いてるわけじゃないから、よっぽど思い当たるフシがあるんだなあ。
これ書いてる今も田中さんの書き物一切読んだこと無いんだけどね!
まだ練習だし、そういうことじゃないだろうきっと。
でも調べることは重要で、この先必要になる。自分でそこまで行こう。
つまらない人
「自分の内面を語る人は、つまらない」
じゃあスベらない話を想像しましょう。ジュニアの「虫唾」の話とか、ケンコバの「きぼうそうれん」の話とか、何でも良いけど。
どんな面白い話でも自分の感情だけで成り立ってる話って一つもない。なにかが起きないと面白いことって生まれない。当たり前だけど、人の感情や興味関心は事象の力の大きさに動かされている。
何かをいじるから面白いものは生まれるんだから、全てにリスペクトがないとダメだなあって思った。自分を好きになれるのも、人を笑わせられることも全部、外側のおかげ。
おもしろいのは自分以外なのであって、面白い人はラッキーで優しい人だ。
巨人の方に乗る
この考え方ってすごい。超楽。どういうことか。
殆どのことは、昔の人が考えてるよ。ということ。
人間ってなんだろう、愛ってなんだろう、とか大体の疑問は昔の偉い人たちが考えまくって、ある程度記録に残してあるぜ。そのうえで「愛とは寂しさを埋めるものだ!」って自分が考えましたテンションで言うのはすっごく恥ずかしいよっていう話。
せっかく新しい時代を生きているのだから、古くを知って、プラスαを表現すればいい。これってすごい楽(調べるのはしんどいけど)。長いこと難しいことを考えたり説明する必要なく、ちょこっと後付をしてけばいいからね。
そしたらこんな長い駄文を書くこともいらないし、読んでもらいやすい。
長い間いろんな人が育ててくれた巨人の肩にちょこんって乗って、その右肩にチンポのタトゥーをちょこっと入れてあげるだけでいい。
そのチンポをどう描くかが俺たちがしないといけない重要なことなんだと思う。
書くことと孤独
ちょこっと引用してみます。
人間は誰しも孤独だ。(略)だがその孤独の中でしか知り得ない事がある。
その人の純粋なところ、美しいところ、正しいところ、優しいところ、そして寂しいところというのは、その人とあって向かい合っているときではなく、離れたあと、ひとりのときにふと思い起こされ、伝わり、感じるものである。
我々が人間への尊敬や愛情や共感を心に刻むのは、実に相互の孤独の中においてである。書くこと、そして読むことは、その相互の孤独を知り、世界への尊敬や愛情や共感をただ一回の人生で自分のものにすることなのだ。
なんかすごい勘違いをずーっとしていた気がする。すごく腑に落ちたし、楽になるよね。
俺みたいな病的自意識過剰な人はやっぱり、自分をよく見られたい。
生きてる間、いろんな手段を使っておもしろいって思わせるためのことばっかりやって、勝手に喜んだり、勝手に鬱ブームになったりしていた。
決して無駄だとは、言えないってか言いたくないんだけどそこまでする必要ない。
自分だってそうなんだからきっと、相手もそう。
精査するための基調な時間として孤独はあるし、その寂しさを知ってもらうために書くという側面もあるのかもしれない。
人といる時、孤独な時、この文の中、どれが本当の自分かなんて無いけど、もしここまで読んでくれている人がいたら、少しでも誰かを知れる力があるのかも。
この本の最後の方に、「人生の寂しさ」を書いているとこがあるんだけど、そこも良い。全くの同意見なので、田中氏の肩に乗ったということで紹介はしないけど。
だいぶ自分の中で向き合い方が変わっている。
もっと自由に、色んなとこに連れってもらおーっと。
書くこと以外にも!ぜひ読もう。。。