ヒモ夫の日常

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【ネタバレ感想】ヨーロッパ企画『九十九龍城』 『フリーガイ』との違いは?

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嬉しいお誘いがあって、ヨーロッパ企画という劇団の2年ぶりの公演である『九十九龍城』を見ることができました。

 

自分のアンテナでは捉えることのできないエンタメで大変興奮しました。色々あって学生の演劇はそこそこ見た経験があるのですが、プロの演劇は初と言っていいほどの素人なのですごく面白かったです。

 

インターネットの性質上、このゴミ溜めのようなブログでも誰かの目に着く可能性が微粒子レベルでも存在するためことわっておきますが、私は演劇を見ることに関しても、ヨーロッパ企画さんの作品に関してもなんの知識もない素人です。

 

なのでこの記事は感想の域を出ないものになります。

 

しかし、この作品を見たエンタメファンはきっと昨年大ヒットした映画『フリーガイ』を思い浮かべるはず。

 

個人的な感想と、似ているようで似ていない『フリーガイ』との比較をメモっておきます。

 

 

『九十九龍城』感想

自分自身が経験の少ない場所や知識に触れるのはやはり痺れます。本多劇場の中はそんな刺激に溢れていました。劇中のセリフを借りるなら、刺激にみちみちていました。

 

すれ違う人はみな、古着かチャンダン系のお香の香りを漂わせ、いかにも観劇経験豊富といった様子。

 

「お前とヨーロッパ見に来るの久しぶりだなあ」

 

との会話が散見される始末です。

 

みな同じものを愛しているはずなのに、あのギスギス感。それがあの街の魅力ですよね。

 

私はアバンタイトル至上主義者なので、最初かなり集中してみましたが完璧でした。

 

メタルギア』シリーズや押井守版『攻殻機動隊』の冒頭のように、何やらモニターで街を俯瞰するシーンから始まり、世界最大のスラムである九十九龍城を2人の男が監視するという大枠の説明を3秒位でわからせてしまうという力。

 

コロナ禍や資本主義を皮肉ってまっせ~という雰囲気が満ちていて、九十九龍城の住人たちの日常やセットの細かい造詣でさらに伝えようとします。

 

アバンタイトル震えました。

 

その他シン劇団員と呼ばれていた女性や、熱い部下を演じた男性、赤い縁のメガネを掛けた役を演じられていた男性など、発声や仕草を見ただけで素人でもこの人すごい人なんだ!というのがわかるほどでした。

 

またお笑いに関しては、やはり舞台の笑いは慣れていないと難しい面があることを実感。

 

お笑い番組や漫才(コントは近い?)の文章や文脈的な笑いと違って、動きや流れ、テンポ、演技など総合的な笑いになっているので掴むのに時間は掛かったと思います。

 

 

『九十九龍城』と『フリーガイ』

 

昨年公開前からかなり話題を呼び、大ヒットした映画『フリーガイ』。

 

主人公たちが作成したゲームのモブキャラクターである「ガイ」がとあることをきっかけに自我を持ち、最後には主人公たちそして画面の前にいる「何者でもないと自覚する我々」をも奮い立たせるという娯楽作品でした。

 

『九十九龍城』も、あの世界はゲームの中の世界でしたね。しかもプレイ人口が大分減っていて、そのゲーム世界の中でも運営が放置しているようなバグの溜まり場が舞台になっていました。

 

その中でモブキャラクター達が奮闘するという群像劇になっておりました。

 

設定はほとんど一緒です。途中セリフや小道具などでその仕組を示唆したヒントがあって、「これ仮想現実だな」って気づいたのですが、2段階の仕掛けになっているのには素直に驚きました。

 

そして簡単に2作品の違いを比較してみました。

 

まず『フリーガイ』ではこの世界がゲームである事が観客に事前に明かされていました。その中で意思を持たないはずの人物が成長していくという共感のしやすい展開。

 

観客とキャラクターが共に何かを「獲得」していく作品です。

 

『九十九龍城』では、劇を楽しむギミックとして「仮想現実」が使われていたので終盤まで真実は知らされていません。

 

なので、尊厳を持っていたキャラクターが偽りの世界を生きていると気づいて、「虚無感」を抱くという形になっています。

 

同じ設定ではありますが、見せ方や趣旨がかなり異なっていますね。

 

結末もまた面白くって。

 

『フリーガイ』ではたとえ作られていても「そう思った感覚やその時の気持ちこそがリアルだろ」という結びでしたよね。

 

嘘の世界でも何か踊らされているとしても、その時の気持ちは揺るがぬ事実なわけで、人間がフィクションを見て感情が揺さぶられるのもそうだし、自分の存在をちっぽけに感じてしまっても、その中にある気持ちは尊重すべきであるという前向きで素敵な終わり方。

 

『九十九龍城』では、「自分がモブである事が許せない」というセリフが印象的でした。バグだらけの世界でもモブでもやらなければいけないことがあるだろうとのこと。

 

実際に九十九龍城のキャラクター達はぼんやりと夢の中で、意義ある何かを手に入れた気持ちを抱いて日常を過ごしていきました。

 

 

 

この変化を生み出す要因は、映画であるか演劇であるか。そしてコロナとの向き合い方ではないかと妄想します。

 

両者ともに「社会を皮肉る」事も役割の1つであり、生である演劇ではそのリアリティと皮肉るパワーが強い。だからただの肯定ではない叫びが感じられるのではないでしょうか。

 

そしてコロナ禍による待遇というか、環境も影響していると思います。

潤沢なお金を掛けて作ったアメリカの大作と、良いとは言えない状況で耐え忍んできた日本の劇団の作品とではメッセージが違って当たり前です。

 

似て非なる両作品を通して、考えることがまた増えそうな気がしますね。